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鴨沢城(鴨沢要害)のちょこっと解説~武和泉守が討死

鴨沢城

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鴨沢城(鴨沢要害)

鴨沢城は神奈川県足柄上郡中井町松本にある平山城
最初の築城は不明だが、戦国時代初)に合戦があったと言う伝承がある。
話を総合すると下記の通りだ。

まず、相模国であることから鴨沢城は、相模・岡崎城の三浦同寸(三浦義同)の支配下だった可能性がある。

そして、1508年~1511年の間に鴨沢城の戦いがあったようだ。

鴨沢城(鴨沢要害)

鴨沢城(鴨沢要害)を守備していたのは、三浦道寸の家来の武氏(たけ-し)だという。
一般的に武家(たけけ)は、薩摩武士だが、鴨沢城(鴨沢要害)の城将は武和泉守とされる。
ただ、この武和泉守なる武将の詳細は不明だが、三浦義同・三浦義意の家来であることは間違いなさそうだ。

北条早雲が鴨沢城を攻撃すると、江戸城?から来たのか、扇谷・上杉朝良の軍勢が三浦氏の援軍としてやってきた。
このとき、武氏が上杉勢を出迎えたとされるが、待ち構えていた北条勢が討ち取ったとある。


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武和泉守が中村に於いて討死した翌日の日付(1510年12月10日)で、子の武源五郎に感状が与えられた。
この感状は上杉建芳(上杉朝良)から、三浦道寸(三浦義同)からと、武源五郎に充てた感状が2通現存する。
また、足利政氏が、三浦弾正少弼(三浦義意)に対して出した感状の中に「家人・武和泉の守と号する輩討ち死に、誠に不敏に思う」との記載が見られる。
このことからも、相模・三崎城主である三浦義意の配下に、武氏がいた可能性もある訳だ。
足利政氏は第2代古河公方だが、この頃、小山政長の下野・小山城に逃れていたか?

また、新編相模風土記稿によりると、年がわからないと言う事になっているが「某年12月、上杉治部少輔朝良が要害を攻めたときに、三浦道寸入道の家臣・武和泉守某討ち死」と記載されている。
このまま話を受け入れると、北条早雲が鴨沢城(鴨沢要害)を守備していて、三浦勢は奪還しようとしたとも考えられる。

実際、1510年に、三浦義同は1回、小田原城を攻撃したため、逆に北条早雲も岡崎城を攻撃したともあめため、その中間の拠点として鴨沢城(鴨沢要害)の攻防があったのかも知れない。

いずれにせよ、鴨沢要害は北条勢が手に入れ、いよいよ、本格的な相模進出への足がかりを得たと言ってよいであろう。

鴨沢城(鴨沢要害)

1512年8月、相模・岡崎城の戦いとなった。
北条勢は、大道寺太郎・荒川又四郎が先鋒。
土肥の富永三郎左衛門、田子の山本太郎左衛門、妻良(めら)の村田市之助以下などが攻撃した。

三浦勢は、城中から佐保田豊後守、大森越後守など200騎が木戸を開いて討って出たと言う。
このとき、武左京亮が「走り廻るの條神妙」の活躍して感状を受けている。

しかし、三浦義同らは岡崎城を捨てて搦手より逃亡。
鎌倉の先にむある、三浦道香の相模・住吉城に籠った。

鴨沢城(鴨沢要害)への登城口は、雑色横穴群の近くから山道があるようだ。
なお、坂道を上るが西側から登城したほうがスムーズ到達できるようなので、西側の鴨沢城登城口を当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。

鴨沢城(鴨沢要害)

スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。

今回は、本降りの雨となってしまったのと駐車場がないため、登城は断念している。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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