大和・馬ヶ脊城
大和・馬ヶ脊城(うまがせ-じょう)は奈良県北葛城郡王寺町本町にある山城で、大和・馬坂城とも書くようだ。
最初の築城としては、南にある片岡城の片岡氏が支城として築いたとされる。
史料における片岡氏の初見は鎌倉時代の1315年であり、1332年、大塔宮・護良親王を守って十津川にて片岡八郎が討死している。
ただし、片岡氏が片岡城を本拠としたのは戦国時代に入った頃とも考えられる。
理由としては、信貴山城を拠点にした松永久秀と領地が接しており片岡春利は対立したようだ。
片岡春利の妻は、筒井城主・筒井順慶の妹とされる。
そのため、筒井氏と松永氏の抗争にて大和の有力国人のほとんどが筒井氏に味方したのと同様に、片岡氏も筒井氏に協力していたと言え、大和・馬ヶ脊城も築かれたのだろう。
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1568年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛した頃、筒井順慶はかなり劣勢となった。
そんな折り1569年、松永久秀の攻撃で片岡城が乗っ取られた。
この時、大和・馬ヶ脊城でも戦闘があったと伝わるようだ。
1570年、片岡春利は片岡城を取り戻したが病死した。(享年36)
麓にある達磨寺境内の西側に片岡春利の墓がある。
その後、片岡郷は松永久秀が支配したが、1577年、織田家に反旗を翻すと、織田信長の軍勢である明智光秀・筒井順慶・長岡藤孝・細川忠興・細川興元らが片岡城を攻略。
そして、織田勢が馬ヶ脊城を陣城として再利用し、織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀などが加わって「信貴山城の戦い」となった模様。
信貴山城の4層天守櫓は炎上した。
筒井順慶は松永久秀の胴部分を達磨寺に埋葬したと言う事になる。
片岡春利の子・片岡春之は、筒井順慶亡きあと大和・郡山城に入った豊臣秀長に仕えた。
大和・馬ヶ脊城(大和・馬坂城)の本丸部分には500年近く遺構が残っていたが、記録・保存されたあと、2008年春に造成されて新興住宅地となった。
そのため、現在、遺構などは消滅している。
駐車場は、健民グランドの無料駐車場を利用可能。
城があった場所などは当方のオリジナル地図「大阪・京都・奈良方面」にてポイントしている。
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