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金子氏館 (島屋敷)
金子氏館 (かねこし-やかた)は、東京都三鷹市新川にある平城で、別名は島屋敷(しま-やしき)、柴田勝重陣屋とも言う。
仙川右岸の独立丘になっており、グルッと川に囲まれた「島」のような形状で、四方は水田だったことから、島屋敷とも呼ばれるようだ。
三鷹の金子氏館は、戦国時代には金子時光の居館と伝わり、天正年間(1573年〜1592年)には金子時光と言う武将が金子氏館主だった。
金子時光(かねこときみつ)は、入間郡金子を本貫とする武蔵・金子氏の一族だと考えられる。
金子氏と言うと入間・金子が本貫で、・金子十郎家忠館も武蔵・金子氏館とも言うため混乱しないよう注意が必要。
八王子城主・北条氏照の重臣に金子家長、金子家定(金子越中守家定)と子の金子政熙(かねこ-まさき)、金子家重(金子三郎右衛門家重)がいるほか、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、武蔵・松山城で北国勢に降伏した金子家基(金子紀伊守家基)などもいる。
三鷹の金子氏館の金子時光・金子弾正と、本家筋の金子氏との直接のつながりは確認できないが、三鷹の金子氏は庶流であったことは間違いないだろう。
ただし、新編武蔵風土記稿によると、戦国時代に高橋肥後守という武将が世田谷城の吉良氏を頼り、かつて仙川を領していた金子弾正家の名跡を継いだと言う伝承もあるようなので興味深い。
高橋肥後守が誰なのかは繋がらないが、近くの牟礼砦には北条綱種(高橋綱種)、烏山砦には高橋綱種の弟・高橋氏高がいたこともある。
北条氏が滅んだあと、武蔵には徳川家康が入ったため、仙川郷は青山百人組の給地となった。
その後、柴田勝家の孫・柴田勝重が徳川家康に仕えると大坂の陣で武功を挙げ、武蔵・上仙川村と中仙川村(東京都調布市仙川町付近)と、藤沢村(埼玉県入間市藤沢)など500石加増されて合計3500石となり、柴田勝重陣屋を構えた。
この時、亡き柴田勝家から預かっていた「兜」を水神の森に祀ったのが「柴田勝家の兜塚」となって、その後、社殿が建てたのが三鷹市の勝淵神社と言う事になる。
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1632年に亡くなった柴田勝重の墓は、仙川通りに面した春清寺にある。
柴田氏の領地としては1698年頃まで続いたようで、柴田氏が転封すると以後は江戸幕府の直轄領となり代官所として利用されたようだ。
交通アクセス
島屋敷の説明板は、新川団地の管理事務所前にある公園のようなところにあるので、当方のオリジナル関東地図にてポイントしておく。
なお、駐車場はないので近隣のコインパーキング利用が必要。
バスの場合には、京王線の仙川駅から、バスで所要12分、新川団地中央バス停下車して徒歩2分くらい。バスの本数は多い。
仙川駅から歩くと、2.3km、片道30分くらい。
近くの三鷹・天神山城とセットでどうぞ。
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