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荒井城(荒井館)
荒井城は、神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴にある平山城です。
相模国には、三浦半島にも、荒井城(新井城)がありますが、こちらは真鶴半島の荒井城になります。
現在、荒井城址公園として整備されていますが、城としての目立った遺構はあまり無いようです。
最初の築城は平安時代と考えられ、1083年、後三年の役の際に、源義家(八幡太郎義家)に従った武将として荒井実継(あらい-いえつな)がいます。
その荒井実継(荒井刑部実継)の本拠地が、真鶴・荒井城だと伝わっているようです。
ただし、屋敷を構えていたのは、真鶴港付近だと考えるのが妥当ですので、荒井城は詰の城(砦)であったと考えてよいでしょう。
これらの理由から、一番適切な表現は、荒井館になるのかな?と感じます。
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平安時代末期には、湯河原に入った中村党の土肥氏が真鶴も支配していたようです。
荒井実継の孫が、土肥實平(土肥実平)であるともされますが、一般的に、土肥実平の父は、中村党の当主・中村宗平ですので、養子に入ったのかも知れません。(平安時代末期は、養子縁組が多くみられる)
他にも、中村庄司宗平の子に、荒井刑部家継がいたのですが、源義家の軍に加わり、壮烈な戦死を遂げたので、鎌倉にいた荒井家継の遺児を成人するまで育てのが、土肥太郎実正だとする場合もあるようです。
まぁ、諸説あり、わからないといったところです。
ただ、もしかしたら、日本全国、荒井さんの発祥地なのかも知れません。
1180年、源頼朝が挙兵すると、真鶴・荒井城から北に9kmの地点で、石橋山の戦いとなりました。
敗走したら源頼朝は、一旦、湯河原・ししどの窟に隠れ、箱根権現(箱根神社)を頼ったあと、土肥実平が用意した船で、真鶴港から、安房へ逃れています。
戦国時代には、小田原城の北条氏の領地であり、荒井城(荒井館)に烽火台があったともされます。
確かに、海上の監視と、街道の抑えには最適な地勢です。(今は木々で展望はありませんが)
ただ、駐車場のほうが高所にあり、城域は、駐車場から下ったところ(谷戸)となります。
となると、その谷戸に、荒井実継の屋敷があったのかも知れません。
そして、駐車場の場所や、高所の住宅地を、戦国時代に使っていたと考えると、しっくりときます。
しかし、真鶴・荒井城に関しては、目立った記録は無く、重要視はされていなかった模様です。
とにかく、情報が少ないところです。
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真鶴・荒井城(荒井館)の見学所要時間は15分くらいです。
公衆トイレはありましたが、あまり、入りたくないような雰囲気でした。
春には桜のライトアップも行われるそうです。
交通アクセス
JR東日本・東海道本線の真鶴駅から徒歩で5分~10分と近くて便利ですが、急坂を登ります。
北側に公園の無料駐車場がありますが、アプローチの道路は狭く、事前に調べておかないと、初めてでは、非常にわかりにくいです。
国道135号から入る道路も狭く1.1車線でして、しかも、急坂でして、短い距離なのに、2回ほど、対向車とのすれ違いが生じ、大変苦労しました。
大変失礼な言い方をすれば、逆に駐車場があるのが、かえって、ありがた迷惑のような感じでして、駅前の有料Pに止めたほうが、ラクだと感じます。
当然ですが、桜の季節は、駐車場も満車で、国道も渋滞しますので、城目的の場合には、時期をはずせると良さそうです。
相模・土肥館跡も、湯河原駅前で便利ですので、セットでどうぞ。
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