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中依知・本間屋敷
中依知・本間屋敷は、神奈川県厚木市中依知にある平城(丘城)です。
相模川の河岸段丘の上にあると言う感じですが、西側からは平坦な平城、東側から見ると平山城と言う事になります。
現在は、館跡は、蓮生寺になっているようです。
城主は、鎌倉時代の本間重連と伝わりますが、本間重連の屋敷は、依知(えち)の中に3つほど、伝承があるため、そのうちのひとつ、依知荘では真ん中にあるのが、中依知・本間氏館と言う事になります。
その3つの屋敷の中で、本屋敷と考えられるのが、上依知・本間屋敷になります。
<注釈> 金田の本間屋敷が本拠ともあるため、本拠を、順次、移した可能性も。
相模川の近くですので、当然、相模川の水運も利用していたことでしょう。
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本間氏は、横山党の一族と考えられ、横山党の海老名季定(海老名源八季定)の次男・海老名右馬允能忠が、海老名郷南部恩馬郷本間村を与えられて、本間能忠になったのが始まりとされます。
その本間能忠からは、のち依知に移り、本間忠家と続き、本間忠家の6男が、本間重連(本間六郎左衛門尉重連)となります。
本間能忠の子・本間能久(本間義久)からは、佐渡・本間氏となっています。
そのほか、妙伝寺の寺伝では、本間重連の弟・越智直重(越智三郎左衛門直重)がおり、その越智直重の父は、萩原道人入道道珍という名で、上依知小学校付近の上依知城山主だった可能性があります。
本間重連に関しては、上依知・本間屋敷にて、詳しく解説しているため、一部、割愛させて頂きます。
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この中依知・蓮生寺は、鎌倉時代の文永8年(1271年)に、日蓮が鎌倉から佐渡島へ配流される際、本間重連宅内の観音堂にて、約1ヶ月間逗留したとされています。
ただ、他の本間屋敷跡となる寺院の、中依知・蓮生寺、金田・妙純寺にも、日蓮が滞在したと言う同様の伝承があるため、日蓮が、どの本間屋敷にいたのか?、それとも、順次、すべての本間屋敷に滞在したのか?、定かではないと言えます。
ちなみに、日蓮は、月に向って法楽したところ、本間屋敷の梅樹に、明星が降臨したことから、本間重連(ほんましげつら)は、日蓮宗に帰依し、寺を建てて寄進したともあります。
1274年、日蓮の罪が許されて、佐渡から鎌倉に戻る途中立ち寄り、小湊を拝し両親に回向、宝塔を積み上げると、日蓮再誕の地として寶塔山・蓮生寺と命名したといいます。
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佐渡・本間家は、佐渡・雑太城を本拠として佐渡での最大勢力となり、いくつも支流(庶流)を排出しました。
室町時代に入ると、鎌倉公方・足利持氏と、関東管領・上杉憲実の対立が激化し、室町幕府第6代将軍・足利義教は、足利持氏の討伐を命じ、1438年、永享の乱(えいきょうのらん)となります。
この時、海老名氏館の海老名氏は、足柄の戦いなどで敗れて逃れて来た鎌倉公方・足利持氏に味方しました。
しかし、更に敗れたため、海老名尾張守と弟・海老名上野介は、室町幕府側に捕縛されて、自刃しており、相模・本間氏(越知氏・依知氏)も没落しました。
蓮生寺の境内には、本間重連と、日蓮上人の伝説や歴史に関した記載されている石版がありました。
戦国時代の武田信玄の重臣として活躍した、小幡昌盛の3男・小幡景憲は、武田滅亡後、徳川家に仕え、1500石の旗本になっています。
・小幡昌盛と真田丸に果敢にも突撃した小幡景憲とは?【甲州流軍学者】小幡虎盛も
その小幡景憲の墓など、小幡一族の墓が、蓮生寺の墓地にあります。
小幡氏の墓がある場所は、蓮生寺の入口に近いところにある、江戸時代の古い墓ですので、わかりやすいです。
境内には新しいトイレも完備されています。
交通アクセス
中依知・本間屋敷跡ともされる厚木・蓮生寺への交通アクセス・行き方ですが、小田急線の本厚木駅から近い、厚木バスセンターより、所要17分、蓮生寺バス停下車の徒歩5分になります。
バスの系統は色々とあり、分かりにくいので、アプリを使うなど、工夫されると良いかと存じます。
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バスをうまく使って、中依知・本間屋敷、金田の本間屋敷も、訪れることも可能です。
クルマの場合、少し道路が狭いですが、蓮生寺の門の脇に、広い駐車場が完備されています。
駐車場の入口は、当方のオリジナル地図にてポイント致しております。
・上依知・本間屋敷【本間重連】の解説~日蓮を保護した相模・本間氏
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