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大島屋敷(大島正時屋敷) 海老名の領主になった里見氏の家臣

大島屋敷(大島正時屋敷)

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相模・大島屋敷(大島正時屋敷)

相模・大島屋敷(おおしまやしき)は、神奈川県海老名市中新田二丁目にある平城(館跡)になります。
大島正時と言う武将の屋敷であることから、大島正時屋敷とも書きます。

この大島氏は、もともと、安房・里見氏の初代である里見義実の家臣だった模様です。

鎌倉公方・足利持氏と、関東管領・上杉憲実の対立が激化し、室町幕府第6代将軍・足利義教は、足利持氏の討伐を命じ、1438年、永享の乱(えいきょうのらん)となります。


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この時、海老名氏館の海老名氏は、足柄の戦いなどで敗れて逃れて来た鎌倉公方・足利持氏が宝樹寺に本陣を置いたため、海老名尾張守と弟・海老名上野介は幕府軍に対峙しました。
この窮地に、里見氏からの援軍として駆けつけたのが大島義金や金子氏らと言う事になります。

この大島義金に感謝した海老名市は、一族である海老名広治(海老名兵衛尉広治)の娘を、大島義金の子・大島正時に嫁がせました。
しかし、足利持氏は降伏しました。

その後、海老名広治は、相模川対岸下流の大住郡田村領主・日奉宗友(ひまつり-むねとも)と争いで、嫡子・海老名広信も失い、大島氏に救援を求めたとされます。
風雨の夜に乗じて相模川の急流を渉り、大島氏は日奉宗友(田邑次郎太夫)の不意をついたとあります。
このように大島正時の助けも借りて、海老名広治は日奉氏を破りましたが、間もなく亡くなり海老名氏は滅亡したので、その遺領を大島氏が引き継いだ模様で、相模・大島氏が成立したと言う事になります。

ただし、海老名尾張守と弟・海老名上野介は、永享の乱にて敗れた際に捕縛されて、自刃し滅亡したともありますので、話の流れとしては、前後して伝承されている可能性があります。


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いずれにせよ、大島豊後守正時が、相模に居を構えたのが、大島屋敷(大島正時屋敷)です。

近くの海源寺の開祖にもなりましたが、これは日蓮宗の僧、日朝上人が厚木の飯山・金剛寺に、一切経の見学に赴いた際に、相模川が豪雨で渡れなかったようで、大島豊後守正時の屋敷に泊めてもらったとされます。
そして、大島正時は日朝は意気投合し、帰依したことから海源寺が建立されました。
ただし、この話は1436年の事とされ、上記でご紹介した永享の乱より2年前の話になりますので、永享の乱よりもっと前から大島氏は海老名に来ていた可能性があります。
となりますと、鎌倉公方・足利持氏は、1435年から軍事行動を開始していますので、その頃から大島義金・大島正時らは海老名に陣を構えていたとも考えられるでしょう。


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江戸時代にも旧家として残った大島氏が土地を寄贈した大島記念公園付近が跡地になりますが、特に遺構はありません。
また、大きな道路の反対側には、1590年に徳川家康が江戸城に入ったあとに、家臣が屋敷を構えた、高木清秀屋敷跡もありますので、セットでどうぞ。

交通アクセス

大島屋敷(大島正時屋敷)への交通アクセス・行き方ですが、小田急・小田原線、JR相模線の「厚木駅」から、徒歩で約10分となります。
駐車場が無いのが難点です。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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