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安達盛長館(鴻巣)
安達盛長館(あだちもりなが-やかたは、埼玉県鴻巣市糠田にある館跡(平城)です。
立地としては、かつては、河川敷も広かったであろう、荒川の水運も利用できたと考えられる荒川の脇にあります。
現在ある放光寺が建てられている場所が、安達盛長館跡ともされますが、遺構などはありません。
晩年は出世した安達盛長ですが、源頼朝に挙兵する前からの古い領地が、この辺りだったのかは、定かではありません。
領地としてわかっているのは、地元の三田・八幡神社を、1192年に安達盛長が創建したと言う、相模国三田郷でして、三田周辺には、安達盛長の墓と伝わる供養塔が、少なくとも3箇所、見受けられます。
安達盛長の出自
尊卑分脈によると、安達盛長の兄は藤原遠兼(安達遠兼)で、その子は足立遠元です。
古代から近世までの鴻巣市域は、主に武蔵国足立郡の一部でした。
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安達盛長の兄が藤原遠兼と言う事は、安達盛長も、最初は藤原盛長とでも称していた可能性があります。
そして、兄が足立郡を領すると、その子が足立と称したので、安達盛長は、遠慮して安達の字を使ったのかも知れません。
源頼朝が挙兵を決意すると、安達盛長は、関東各地の武将に加勢を呼び掛ける使者にもなっていることから、多少は、各地の武将と面識もあったのかも知れません。
となると、やはり、鴻巣あたりを領していた可能性はあるのですが、鎌倉幕府が成立しても、しばらくは、小野田藤九郎盛長と名乗っていたともされます。
尊卑分脈は、平家と藤原摂関家の系図は、信用できますが、関東になると信頼性に欠けることもあります。
そのため、足立氏が出自だと言うのは、ちょっと考えにくいです。
この小野田氏の場合、安達盛長の父は、小野田兼広・小野田兼盛ともあります。
小野田氏は、三河・小野田荘にて、流人の世話をするような立場だったようですので、武士とは言えなかった可能性があります。
そのように考えますと、安達盛長の家来に、武蔵の者がほとんどいないのも、理解できます。
一説によると、源頼朝が、伊豆に流される際に、小野田氏らが世話したともされます。
1184年、安達盛長は上野国奉行人に任じらていますが、晩年には三河国守護にもなっています。
しかし、吾妻鏡などの史料では、安達盛長が、小野田氏として記載されていることはなく、多くは「藤九郎盛長」と明記されています。
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調べれば調べるほど、ドツボにはまると申しましょうか?、結論を申し上げれば、安達盛長の出自は不明です。
新編武蔵風土記稿では、下記のように記述されています。
旧跡殿ノ内出、村の中程にあり、藤九郎盛長の居跡と云伝ふ。
放光寺、相伝ふ当村は昔盛長が領地なりしゆえ、其頃当寺を創立し且自作の像を残して永く祈願所に定めしと、此説おぼつかなし、それをいかにと云に武家評林諸家大系図等に、盛長を安達藤九郎と載たり、安達は陸奥国の郡名なれば足立とは自づから異なれり、殊に盛長の子孫景盛も始は安達を名乗りて後年秋田城介と改号すれば奥羽の地を領せしこと論なかるべし。
思ふに安達、足立唱への同じきより、かかる附会の説はおこりしならん。
まぁ、陸奥国安達郡は、奥州征伐のあとに、加増されたと考えてよいです。
そして、安達氏の領地となって安達郡と言う地名が、つけられたとも考えられるのですが、これも、なんとも言えません。
他には、相模国の厚木のほうにも、安達盛長の領地があります。
南北朝時代に成立した歴史書・保暦間記(ほうりゃくかんき)では、安達盛長のことを「先祖知れず」と記載しています。
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一番気になるのは、藤九郎盛長(安達盛長)の鎌倉での屋敷が、鎌倉の中にしては、遠い事です。
大蔵御所からはだいぶ離れた、甘縄(あまなわ)と言う、鎌倉・長谷寺のほうにありますが、もとは近くにあり、引っ越しでもしたのでしょうか?
最初から近臣としてもっと信頼されていれば、もっと、鶴岡八幡宮に近い場所に屋敷があってもおかしくありませんので、武士団としては、恐らく、だいぶ下だったように感じます。
源頼朝が朝廷に掛け合って、有力な鎌倉御家人の多くは、最低でも、左衛門尉(従六位など)になっています。
しかし、藤九郎盛長(安達盛長)は、無官なのです。
足立遠元は左衛門尉、子の安達景盛は右衛門尉となっていますが、藤九郎盛長(安達盛長)が、任官された形跡がありません。
となると、丹後内侍は、本当に、源頼朝の妾で、安達景盛がもらい受けたのか?とも、感じてしまいます・・・。
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いずれにせよ、安達盛長は、源頼朝の乳母・比企尼の長女とされる丹後内侍を妻にしました。
その縁もあってか、源頼朝が、伊豆・蛭ヶ小島(ひるがこじま)にいたころから、家来として仕えていたようです。
そして、安達盛長の娘・亀御前が、吉見の源範頼に嫁いだあたりから、注目されるようになったのかも?知れません。
ちなみに、源範頼の妻になった亀御前の墓は、吉見ではなく、石戸館の近くにあります。
安達盛長の嫡男・安達景盛(あだち-かげもり)には、美女の妾がいました。
しかし、1199年7月から8月にかけて、源頼家の命を受けた中野能成・和田朝盛・比企宗朝・小笠原長経らが、安達景盛の留守中に愛妾を奪おうとしています。
この事からも源頼家は安達氏をだいぶ格下だと思っていた節が感じられ、嫌がらせをしたとも受け取れます。
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1199年1月、源頼朝が死去すると、安達盛長は出家し連西と称しています。
その後も、十三人合議制のひとりとなり、大江広元、北条時政、北条義時らと幕政を担いましたが、1200年4月に死去しました。享年66。
墓所として伝わるのは、伊豆・修善寺と、愛知県蒲郡市の長泉寺になります。
放光寺は安達藤九郎盛長が開祖とされ、本堂には安達盛長の木像が安置されているそうです。
なお、平安時代末期頃の鴻巣は、笠原頼直、笠原親景、奴加田氏などの領地がありました。
そのため、奴加田氏の存在は、気になるところです。
奴加田氏は糠田(ぬかた)の名を名字とする武士と考えられますので、足立郡糠田(鴻巣市糠田)が本領だった可能性があります。
ただし、その奴加田氏が何らかの理由で、別の場所に移り、安達盛長の領地になったのかも知れません。
奴加田氏の館は、もっと荒川に近かったようで、堤防などでもはや不明といったところです。
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ちなみに、安達盛長の子・安達景盛は、父の死後活躍し、和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を賜ったとあります。
ただ、武蔵国長井荘は、熊谷市のほうになりますので、鴻巣まで含まれていたのか?が、なんとも言えません。
放光寺の境内には、あまり知られていないようですが、安達氏一族之供養塔(安達公の墓所)もありました。
昭和58年に、伊豆・修善寺の安達盛長の墓から、台座などが寄贈されて、新しく設けられた模様ですが、設置することに意義がありますので、これで良いと感じます。
安達盛長が、もし、かなり身分の低い武士から、無官ながらも、十三人合議制のひとりになったのであれば、戦国時代の石田三成以上に、とてもスゴイことだったのかも知れません。
交通アクセス
安達盛長館への行き方・アクセスですが、JR高崎線「鴻巣駅」の西口から約3km、徒歩45分の距離です。
レンタサイクルは、鴻巣駅・東口にあるようですが、要確認です。
駐車場は、放光寺の南側にありますが、集落の中ですので、場所がわかりにくいです。
当方のオリジナル関東地図にてポイントしておきます。
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伝源経基館も、そんなに遠くはありません。
このあとは、源範頼館跡に向かいました。
鎌倉での安達盛長の屋敷跡の話も、よければ合わせてご覧頂けますと幸いです。
・安達盛長の解説 源頼朝を長く支えた側近【鎌倉殿の13人】
・丹後内侍 丹後局 2人の解説【島津忠久の母】
・足立遠元の解説【鎌倉殿の13人】文武両道の鎌倉武士
・比企能員(ひき-よしかず)の解説【比企能員の変】
・源範頼の解説 源義経の次に処罰された源氏
・源範頼館・御所陣屋の解説~吉見御所と源範頼(蒲冠者)を検証してみた
・高尾・阿弥陀堂【亀御前】の解説~亀の前の墓(安達盛長の娘で源範頼の妻)
・安達盛長の墓(安達盛長の供養塔)~厚木「金剛寺・大師堂」
・史跡めぐりにも便利なオリジナル関東地図
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