埼玉県

鴻巣・源経基館【源経基の解説】武蔵介となった清和源氏の初代

源経基館




源経基館とは

源経基館 (みなもとつねもと-やかた) は、埼玉県鴻巣市大間にある館跡(平城)です。
伝・源経基館跡とされ、地元では城山(浅間山)と呼ばれていますが、山の上にある訳ではありません。
別名は、箕田城、大間城とも言います。

源経基館

立地としては、かつては、河川敷も広かったであろう、荒川の水運も利用できたと考えられる微高地にあると言う感じです。
多くは林の中となっていますが、曲輪、土塁、横堀(空堀)などの遺構が、比較的、良く残されています。





源満仲(多田満仲)の父・源経基が(みなもと の つねもと)が、平安時代中期の938年に、武蔵介になった際に、鴻巣に居館を構えたと伝わります。
平将門は、935年頃から暴れだしており、武蔵国司の源仕と源宛もするなか、赴任したものと考えられます。

その頃、武蔵国司である蘇我源氏・源仕(みなもと の つこう)の本拠としては、鴻巣・箕田に箕田館があった模様です。
源仕の子・箕田源二(箕田源次)は、933年に、父の任地で生まれたとあり、元服すると源宛(みなもと の あつる)と称し、父と同じく武蔵守に任じられました。
そして、953年に、源宛が亡くなったとされ、その同じ年に、源宛の子・渡辺綱(わたなべ の つな) も、武蔵国足立郡箕田郷にて生まれたとされます。
ちなみに、渡辺綱は、日本全国、渡辺さんの租です。

このように、蘇我源氏が、しばらく鴻巣にいたようで、補佐役の武蔵介として赴任したのが源経基だったと考えられます。
源経基の妻のひとりに、蘇我源氏・源俊の娘がいます。
この源俊(みなもと の すぐる)は、大納言・源定の孫で、939年、平将門・興世王・武蔵武芝の謀叛を調査するため、武蔵国密告使長官となっています。
源経基の子・源満仲(多田満仲)の妻のひとりも、源俊の娘であり、948年に源頼光が生まれています。
源満仲の娘は、源宛の妻にもなっており、渡辺綱の母である可能性もあります。
そして、源頼光に仕えたのが、渡辺綱と言う事になります。





さて、鴻巣・源経基館に関しては、興世王(出自不明)なる人物と、源経基が武蔵に入っており、ココが、源経基の館跡だと推測されています。
そのため、埼玉県内では最も古い館跡とも言われます。
なぜ、武蔵の国守が、他の場所でも良いのに、鴻巣を本拠にしたのか?と申しますと、こうのすと言う名称は、古代より「国府の州」があったことから「こうのす」と言う地名になったとされることから、迷わず、ここに屋敷を構えた可能性があります。

源経基とは

清和源氏の初代・源経基(みなもとつねもと)は、武蔵国の在地豪族、足立郡司・判代官の武蔵武芝(むさし の たけしば)と対立し、財産を没収しています。
逃走した武蔵武芝は、平将門に仲介を頼みました。

伝源経基館

平将門は、上総介・平良兼らの兵を筑波山にて駆逐するなどし、しだいに、関東での有力勢力になっていました。
しかし、源経基は和議に応じず、武蔵武芝が反撃に出て包囲すると、源経基は京に逃亡しています。

伝源経基館跡

そして、平将門が謀反を起こしたと、朝廷に訴えました。
ただし、平将門は、藤原忠平に事実無根だと書状を送ると認められて、平経基は誣告の罪で、捕縛されています。
<注釈> 誣告(ぶこく)とは、故意に事実を偽って告げること。





ところが、平将門は、次々に関東の要所を制圧するほどの勢いとなっており、下野守、上野守、常陸介、上総介、安房守、相模守、伊豆守、下総守など、本来朝廷が行う任命を、平将門が「新皇」と称して、勝手に行うようになります。
すなわち、独立国「坂東王国」ならぬ様相を呈し、平将門謀反と京に伝わりました。

伝源経基館跡

そのため、940年1月9日、釈放された源経基は、以前に密告したことを、逆に称賛されて、従五位下に叙されられています。
そして、1月19日には参議・藤原忠文が征東大将軍となって、平将門の討伐軍が送られました。
源経基も、副将のひとりとなって、関東を目指しています。
ところが、下野の藤原秀郷、平貞盛、藤原為憲が連合し、兵を分散させていた、平将門に勝利します。





出ましたね。
鎌倉幕府の樹立に向けて、大きなポイントになるのが、この藤原秀郷で、平将門を討ち取った名声は大きく、子孫は関東各地で繁栄することになります。
と言う事で、京の藤原忠文や源経基が、関東に入る前に、平将門の乱は鎮圧されてしまいました。
ただし、源経基は、武蔵国・信濃国・筑前国・但馬国・伊予国の国司を歴任しており、最終的には鎮守府将軍と言う、当時の武門最高職に就いています。
更に、源経基の子・源満仲(多田満仲)は、藤原氏に協力して、武家としての地位を確立し、その後、子孫の源氏が約700年にわたり、活躍して行くことになります。

源経基

実際に、源経基館跡の中を歩いてみましたが、周囲はなかなかの土塁で囲まれています。
その土塁の周りは、空堀になっていると言う感じです。
そのため、とても、平安時代の中期に築いた城だとは思えません。
となると、後年、改修されたとも考えられますが、史料などは残されていないようです。
とは言え、屋敷の周りに土塁と堀を儲けると言う上では、お手本のような城跡です。





源経基館跡の土地は、大半が市に寄贈され、城址公園「城山ふるさとの森」となっています。
破壊されるよりは、ぜんぜん、良いのですが、内部は、荒れ放題に近く、何か復元されていたりするものは皆無です。
正規の駐車場やトイレもありません。

源経基館

西側の道路沿いには、案内板もあるようです。
見学所要時間は、15分~30分ほどになります。

交通アクセス

源経基館への行き方・アクセスですが、JR高崎線「鴻巣駅」の西口から約1km、徒歩15分の距離です。
レンタサイクルは、鴻巣駅・東口にあるようですが、要確認です。
駐車場はありませんが、北東で、狭い道路がクランクしている箇所に、2台ギリギリの駐車スペースがあり、そこから空堀を抜けて、源経基館に進入できます。
場所は、当方のオリジナル関東地図にて、ポイントしておきます。(カーナビとしてもお使い頂けます。)
このあとは、安達盛長館跡へ向かいました。
あと、鴻巣・勝願寺には、小松姫の墓や、仙石秀久の墓もありますので、セットでどうぞ。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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