土佐泊城(とさどまり-じょう)は、徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦にある大毛島にある平山城です。
戦国時代の天文年間(1532年~1555年)に、名東郡黒田村から土佐泊に移った佐田九郎兵衛の子・森元村が築城しました。
土佐泊に移転してから森氏を称したようです。
森元村(もり-もとむら)は、三好家の家臣で、父・佐田九郎兵衛は阿波佐田館にて38貫を領していました。
天文年間に、細川家に反発した讃岐勢が、海から阿波へと侵攻したようで、森元村は攻撃を受けました。
しかし、侵攻を阻止したどころか、讃岐勢を追撃して引田城まで攻め込んだことから、大きく武名をあげました。
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当主は代々・森甚五兵衛(もり-じんごべえ)と言う名称を世襲しており、土佐泊城では阿波水軍を率いて、紀伊水道と瀬戸内海の入口を抑えます。
そのため、水軍城としての機能もあったようで、村上水軍など同じく海賊を率いた半独立勢力となっていたようです。
土佐泊城に面した海峡は「小鳴門海峡」と呼ばれていますが、潮の満ち引きがあると、川と間違うほどに激しい海流となりますので、海からも攻めにくいところです。
そして、強大な阿波水軍を有していたことから、細川氏、三好氏、蜂須賀氏と、歴代の阿波領主から森家は重用されました。
天文16年(1547年)に、子の森村春(もり-むらはる)に志摩守を名乗らて、森元村は筑前守となって、段関に隠居しています。
1578年には、十河存保に従わなかった木津城主・篠原自遁に対して、森村春が計略を用いて従わせたともあります。
1582年に、長宗我部元親が阿波に侵攻した際、阿波と讃岐の多くの城は長宗我部勢に降伏などしましたが、土佐泊城は陥落しなかったと言います。
と言う事で、長曽我部元親は、四国を完全には平定していないとも言われる、由縁のひとつでしょう。
そのまま土佐泊城を守った森村春は、1585年、豊臣秀吉の四国征伐の際に、豊臣勢に参加して阿波・木津城と、岩倉城攻めにて戦功を挙げました。
豊臣秀吉から京都へ呼び出された森村春は、堅固な要塞の土佐泊城を破却するように命じられます。
しかし、土佐泊城があったからこそ、四国平定ができたと説いて、蜂須賀家の重臣として迎えられることになりました。
そして、蜂須賀家政が、阿波・一宮城主となると、森村春は福井庄など3026石を与えられて、1586年(天正14年)に阿南市の椿泊へ移っていますが、これは土佐・長曽我部家の押さえでもあり、豊臣秀吉の意向が働いています。
また、父・森元村も厚遇されており、は国実村(石井町)に隠居料100石を賜りると、のち1594年6月5日に没しました。
森村春は、豊臣秀吉の九州征伐や、小田原攻めにも、蜂須賀勢として阿波水軍を率いて下田城の戦いなどに参じました。
そして、1592年、文禄の役のときには、熊川一番乗りを果たします。
しかし、6月2日唐島水道の海戦にて討死しました。
その後、家督を継いだのは15歳の森忠村で、父の死がもたらされると、急ぎ朝鮮に渡ります。
唐島にて戦功があり、蜂須賀家政から刀を与えられました。
慶長11年(1606年)7月10日に死去しています。
その後、水軍は弱体化しましたが、蜂須賀家の中老として森家が阿波水軍を統括し、参勤交代や瀬戸内海での移動で、明治維新まで海上方を担いました。
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現在、土佐泊城跡の要害部は、南海病院の私有地となっています。
そのため、病院関係者・患者さん以外の、山への立入りは、現在、認められていないようですが、事務室で許可を求めると、あっさりと「どうぞ」と許可がおりる場合もあるようでして、見解が統一はされていないようです。
撫養川の河口から、大毛島への渡し船が出ていますが、水軍の名残だと思いますと風情を感じます。
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