虎丸城(とらまるじょう)は、香川県東かがわ市水主にある与田山麓の虎丸山にある山城です。
標高は417m、比高は395mと、かなりの山城でして時間の関係で登城は断念しましたが、遠景だけ撮影して参りました。
築城時期は不明ですが「寅年」に築いたため、虎と言う名が城名に入ったと言われています。
また、元弘二年(1332年)に、この地の豪族・佐伯秀国が、紀州から落ち延びてきた護良親王を守るため、築城したのが起源であるとも伝わります。
北には与田川、南は湊川に挟まれている虎丸山は、独立性が高い山です。
室町時代末期にこの辺りは、細川家の被官として大内郡、寒川郡、小豆島を領した寒川氏の所領で、1512年、昼寝城主・寒川元家(さんがわ-もといえ)は、引田城の港より中国・朝鮮・琉球と交易を開始しています。
元亀3年(1572年)、寒川元家の子・寒川元政のとき、寒川元政は敵対していた雨滝城主・安富盛定の策略にハマり、主筋の勝端城主・三好長治とその重臣・篠原長房の命により虎丸城を譲渡し、寒川氏は昼寝城に退きました。
そして、虎丸城は安富盛定のものとなっています。
その後、1582年に、中富川の戦いで敗れた十河存保が、虎丸城に逃れてきました。
そのため、長曽我部元親は虎丸城を攻めましたが、堅固であり落とせず、引田城での引田の戦いに勝利し、雨滝城も攻略しています。
そして、翌1584年には十河氏の本拠である十河城を落城させると、虎丸城も落ちたようで、十河存保は京に逃亡し、天正13年(1585年)に虎丸城は廃城となった模様です。
ただし、虎丸城の北東谷間には、長宗我部氏が得意とした築城技術である畝状竪堀があるため、長曽我部家が手を加えたとも推測すると、豊臣秀吉の四国攻めまで使われていた可能性はあります。
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虎丸城への登城は、急峻な山道を登りますが、登山道はかなり整備されている模様です。
トレッキングポールなどの軽登山装備は必須となります。
とらまる公園の駐車場を利用できるようですが、与田川から登って片道60分以上はかかる模様です。
高徳線の三本松駅から山頂までは往復で3時間以上となります。
虎丸城だけに、山頂には阪神タイガースの旗があると言う、素晴らしい光景が待っている模様ですが、噂の真偽は不明でございます。
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