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愛甲三郎館 弓の名手「愛甲季隆」の解説

愛甲三郎館

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愛甲三郎館とは

愛甲三郎館(あいこうさぶろうやかた)は、神奈川県厚木市愛甲298にある平城(館跡)です。
愛甲氏館、愛甲季隆館、愛甲三郎季隆屋敷とも呼びます。
玉川が流れる田園地帯から、1段高い丘の崖端に築かれており、御屋敷添(おやしきぞえ)と言う地名があるほか、明治頃までは。、東・南・西に空堀があったと言います。
現在は、神明神社が建てられており、愛甲三郎館跡の石碑も設置されていますが、これは「新編相模国風土記稿」の記載を受けてのことです。
中の御所と言う字もあったようですが、明治9年に「中ノ御所」から「御屋敷添」へ地名が変更されており、現在は東名に掛かる橋の名称に「屋敷添橋」が使われています。

平安時代の末期、1113年3月4日、八王子を本拠として横山党の横山隆兼(横山季隆)の頃とされますが、横山党の20余人が、相模国愛甲庄を統治していた愛甲内記平大夫(あいこうないきたいらのたいふ)を殺害したとあります。
そのため、この愛甲三郎館跡や、後述しますが、別の場所にある愛甲城は、もともと、愛甲内記平大夫の屋敷だった可能性もあります。
この時、横山党は朝敵となり、秩父重綱、三浦為次、鎌倉景政から攻撃を受けましたが、3年間抵抗を続け、残された愛甲氏も、横山党に降伏したとあります。
それからしばらくして、横山隆兼の3男・横山季孝(槙山季隆)(すえたか)が愛甲庄に入って愛甲三郎と名乗りました。


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1150年生まれとされる愛甲季孝(愛甲季隆、愛甲三郎)のほかに、他に横山隆兼の5男の小野五郎も愛甲五郎を称しています。
愛甲季隆(愛甲三郎季隆)は、幼いころから武術にすぐれた武将で、源頼朝の直属となりました。
特に弓の名手として知られ、特に騎射を得意としていたようです。

1180年、源頼朝が鎌倉を制圧して、源頼朝邸を造営した際、新築を祝う「弓はじめ」の儀式にて、愛甲季隆(愛甲三郎季隆)が、1番の弓を引きました。
1193年5月28日の夜、源頼朝が富士の裾野で巻狩り行った最終日に発生した「曽我兄弟の仇討ち」では、源頼朝に同行していた御家人で、手傷を負った者の1人として、愛甲三郎の名前が記録されています。
源頼朝が没し、北条時政が権力を狙うと、1199年、二俣川にて鎌倉幕府軍に畠山重忠が討たれます。
このとき、愛甲三郎隠れ穴にて待ち伏せし、愛甲季隆(愛甲三郎季隆)が放った矢にて、畠山重忠を討取ったとあります。

しかしながら、1213年の和田合戦では、打倒北条を掲げた和田義盛に、和田氏と姻戚関係にあった横山党は一族を上げて味方し、愛甲季隆(愛甲三郎季隆)を筆頭に愛甲氏も参陣しましたが、北条氏の巧みな策略に和田勢は大敗を喫しました。
横山党一族のほとんどが討死し、愛甲氏も愛甲義久(愛甲小太郎義久)、愛甲季隆(山口野太郎)、愛甲五郎なども討死して、愛甲氏は没落しました。

なお、和田合戦より前の1197年(1186年とも)に、愛甲賢雄(山伏愛甲小太郎忠雄)、島津忠久の薩摩国下向に従って、相模から大隈国桑原郡吉松郷に移り住んだとされます。
戦国時代には、島津家に従っていた、愛甲相模坊光久と言う僧侶が、敵国との交渉役などに当たっています。
江戸時代にも薩摩藩に愛甲緒民部左衛門らの名が見られ、愛甲氏は九州にて続いていたことが伺えます。


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鎌倉時代後半の1243年、愛甲庄は鎌倉幕府に寄って熊野山に寄進されており、のちの高知城主・山内一豊の先祖にあたる、熊野神社系の藤原清俊が、母・鶴熊から、愛甲庄を譲られました。
現在、愛甲石田に鎮座する熊野神社がその名残りとなっています。

上記は当方の姉妹サイトの記事「横山党と愛甲氏」より抜粋しました。

なお、愛甲石田駅の東側にある円光寺が、愛甲城とも呼ばれており、愛甲季隆の別邸があったともされます。
ただ、私の考えとしては、愛甲季隆の兄・愛甲義久が、愛甲氏の宗家と推測されるため、兄・愛甲義久の屋敷が、愛甲石田駅に近い愛甲城だったとも感じております。
ただし、兄とされる愛甲義久は、横山党の通字と考えられる「季」や「隆」の字を使っていないため、庶子だった可能性も捨てきれず、愛甲庄の本家と目されていたのが、愛甲季隆だったのかも?知れません。
愛甲三郎館が愛甲氏の本拠になる屋敷だったのか?、それとも円光寺の愛甲城のほうがそうだったのか?
それとも、愛甲氏の一族がそれぞれ住んだのか?
北条政子から命を狙われた丹後局(丹後の局)を匿った愛甲氏の屋敷は、どっちだったのか?、気になるところです。
(注釈) 愛甲石田・円光寺(圓光禅寺)の前住職は、タレント・霊能者の織田無道さん。


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愛甲三郎館への交通アクセス・行き方ですが、小田急・小田原線の愛甲石田駅・北口から愛名・愛甲原住宅行きバスに乗車して「愛甲橋」バス停下車の徒歩約5分となります。
愛甲石田駅から歩くと、約15分くらいの距離です。
クルマの場合、愛甲三郎館跡にある神明神社に駐車スペースがあり3台ほど止められますが、アプローチの道路は1.2車線ですので、ご注意を。
ただし、駐車は短時間で済ませたいところです。
見学所要時間は5分程度あれば充分です。

近くにある宝積寺(ほうしゃくじ)に2つの五輪塔があり、愛甲季隆の墓ともされます。
しかし、石の状態から、鎌倉時代のものとは考えにくいです。
のちの世に造られた、愛甲氏の供養塔の可能性があります。
愛甲城とセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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