神奈川県

岡津古久城 城主などよくわからない厚木の城跡

岡津古久城

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岡津古久城 (おかつこく-じょう)は、神奈川県厚木市岡津古久にある平山城で、岡津古久城山とも書きます。
標高は58m、比高は12mほどであり、低い台地の先端部に築かれています。
伝承によると、室町時代(戦国時代)の築城で、小豪族の城(館)とありますが、委細不明と言ったところです。
鎌倉時代には、横山党(小野氏)が領していた場所であり、小野一族が付近に館を構えたと推測されます。
その後、和田合戦で横山党が没落すると、大江広元の領地となりました。
ただし、大江広元の領地は広大であり、八王子を拠点にしたようですので、この付近に館が設けられたかは、なんとも言えません。


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一説によると、秩父次郎左衛門が、津古久を領したとあります。
これは、戦国時代の1559年に記録された「小田原衆所領役帳」にあるもので、小田原城の北条家家臣として、秩父次郎左衛門が、中郡・津古久128貫文との記載があるためです。
なお、秩父次郎左衛門は、韮山城主・北条氏規の家臣で、本拠は伊豆です。
恐らくは、室町時代に、秩父氏が一時、相模国守護と、伊豆国守護になった際に、伊豆にて土着した秩父氏の末柄と推測されます。
秩父次郎左衛門は、伊豆の間宮で200貫文、伊豆・江間90貫文、同じく江間88貫文、伊豆・白浜72貫文と、合計知行役高578貫文です。
この578貫の知行は、北条家でもトップ20に入ると言う、重臣クラスと、なかなかの大身です。
そのため、普段は伊豆にいた可能性が高く、更に、中郡・津古久(つこく)が、玉川のもっと下流域にある厚木市下津古久を差しているのか、ここ岡津古久なのか、不明なため、秩父次郎左衛門の城が、ここの岡津古久城とは断定できません。
もしかしたら、岡津古久城の規模からも、伊豆衆・秩父次郎左衛門の家来が滞在していたのかも知れません。

岡津古久城

(注釈) 伊豆の間宮と申しますと、北条早雲に古くから従っていた間宮氏の発祥地で、間宮康俊が有名です。
間宮氏は、秩父一族ではなく、横浜の笹下城を与えられているため、そのあと、伊豆・間宮に入ったのが伊豆の秩父氏である可能性があります。
ただし、鎌倉時代から秩父氏は、一族がたくさんいますので、もはや調べるのは、かなり困難を極めます。

なお、北条氏規が豊臣秀吉と交渉した際に、秩父孫次郎なる武将が、北条氏規の上洛費用として50貫文を負担しています。

日産の大きな工場があるところには、かつて八王子道の「津古久峠」(標高91m)があり、江戸時代に入ると、大山詣で賑わったことから、茶屋もあったそうですので、交通の要所ではあったと推測されます。


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個人的には、このように、こじんまりした城跡は、大好きです。
そして、忘れられずに、城跡として地図にも記されているのは、本当にうれしいです。
しかし、岡津古久城跡は、民間地(私有地)であり、整備もされていないようですので、道路からの撮影に留めさせて頂きました。
岡津古久城がある場所は、当方のオリジナル地図「日本の城マップ」にてご確認頂けますと幸いです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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