島根県

出雲・鳶ヶ巣城 (出雲・鳶巣城)  宍道隆慶・宍道政慶

出雲・鳶ヶ巣城 (出雲・鳶巣城)

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出雲・鳶ヶ巣城(とびがす-じょう)は、島根県出雲市西林木町にある放射状連郭式の山城で、標高281m、比高は260mほどと堅固です。
別名は出雲・鳶巣城とも書きますが、浜田市に周布氏の石見・鳶巣城もありますので、注意が必要です。
出雲・鳶ヶ巣城最初の築城としては、戦国時代の1504年~1521年に、尼子一族である宍道久慶が築いて、金山要害城から本拠を移したとあります。
その宍道経慶と、母・尼子国久の娘の子である宍道隆慶 (しんじ-たかよし) は、尼子晴久に仕えていました。
しかし、1540年、尼子氏が攻めた、吉田郡山城の戦いでは、参陣するも、戦況が不利になると、早々に引き上げています。


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そして、天文11年(1542年)1月、周防の大内義隆が自ら出陣して、大内晴持、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包や、当時、大内氏に臣従していた、毛利元就、小早川正平、益田藤兼らと、出雲へ侵攻します。
このとき、石見・出雲の尼子勢だった、吉川興経、三沢為清、三刀屋久扶、本城常光、山内隆通らが大内氏に寝返りますが、尼子一族にも関わらず、宍道氏も大内家に従いました。
そして、月山富田城の戦いに、大内勢として参じて法衣するも、なかなか、月山富田城が落ちなかったため、動揺した、三沢為清、吉川興経、三刀屋久扶、本城常光、山内隆通らは、再び尼子勢に転じます。
そのため、戦況不利となった大内勢は1年4ヶ月の長期戦のすえ、撤退し、立場が悪くなった宍道隆慶は、一族と共に大内氏に付き添って出雲を出て、周防山口の吉敷郡糸米村に居住しました。

大内氏滅亡時、宍道隆慶は、姫山城にて籠城しましたが、大内義長が山口を放棄すると、毛利元就に従属しました。
永禄4年(1561年)、毛利氏の出雲侵攻の際には、宍道隆慶と嫡男・宍道政慶(しんじ-まさよし)が、先祖伝来の地である出雲・鳶ヶ巣城を奪回しています。

出雲・鳶巣城

出雲方面を担当した毛利家の吉川元春が、鳶ヶ巣城の改修を命じており、大きな山城になった模様です。
出雲平野を一望できる主郭には宍道政慶公之碑があるようで、東1郭、東2郭など約10箇所の郭、土塁などの遺構もあり、現在は鳶ヶ巣城址公園として整備されています。
1570年(元亀元年)には、毛利輝元らが入城して、新宮党の遺児・尼子勝久ら尼子再興軍の出雲・高瀬城などを攻撃する拠点としました。
昔は、宍道湖が、麓付近まで伸びていたようで、出雲・平田城同様に、水運の抑えでもあった模様です。


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天正5年(1577年)には、鰐淵寺の本堂を毛利元康、天野隆重、三沢為虎、三刀屋久扶、湯家綱らを従え、宍道氏が中心になって造営に参加しています。
しかし、宍道氏に反発した勢力もあり、主君・毛利輝元の許可を得ると、天正10年(1582年)10月、本宮山城主・大野高成を、鳶ヶ巣城に招いて、一族郎党を殺害しています。
城跡にある「大野塚」が大野高成の墓と伝わるようです。
天正12年(1584年)、毛利家によって出雲国衆の国替えが行われ、宍道政慶は、長門国阿武郡大井(萩市大井)へと2000石にて転封となりました。
その後、宍道氏は、長州藩士となっています。

出雲・鳶ヶ巣城

出雲・鳶ヶ巣城への交通アクセス・行き方ですが、一畑電鉄川「跡駅」から徒歩30分となります。
国道沿いに10台ほどの無料の駐車場があり、本丸までは、約1kmのハイキングコース(登山道)が整備されていて、片道40分程度の模様です。
なお、シカの駆除のため、鉄砲を撃つ時期もありますので、現地での案内にご留意願います。

出雲・平田城の解説
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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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