山梨県

中津森館 長生寺・桂林寺・用津院とは 小山田氏関連

中津森館

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中津森館(なかつもり-やかた)は、山梨県都留市金井にある平城跡で、郡内・小山田氏が長い間、中津森に館を構え、郡内における統治の中心地であったと考えられます。
いつ頃から中津森館があったのかはわかっていなようですが、1394年の小山田信澄の時には中津森館が既にあったと考えられています。
また、甲斐守護・武田信満の正室は小山田弥次郎の娘とあります。
この武田信満は甲斐武田家13代当主で、小山田弥次郎も一緒に出陣したようですが、1416年、上杉禅秀の乱に加担した際に、上杉憲宗の討伐を受けています。
このように、郡内・小山田氏は戦国時代よりもっと前から、甲斐・武田家と郡内・小山田家は親戚関係であったことがわかります。
下記では、長生寺・桂林寺・用津院・中津森館と言う順番で掲載させて頂きます。


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長生寺

中津森館跡の付近には小山田氏に関連する寺院が3つありますので、まずは代表格の長生寺(ちょうしょうじ)からご紹介したいと思います。

長生寺の開祖は、1469年8月9日で甲斐守護・武田信昌が20石寄進したとされ、開山は鷹岳宗俊禅師です。

長生寺

戦国時代には1512年に小山田出羽守信有が寺領19貫675文を寄進していますが、その時、用津院3世の一道光円が招聘されていて、用津院が長生寺の末寺に加わりました。
1618年に焼失しますが、郡内に入っていた鳥居成次(鳥居土佐守成次)により七堂伽藍が再建され、この時、下記写真の中雀門も創建されたそうです。

長生寺の中雀門

江戸時代には谷村藩主・秋元家の菩提寺にもなったことから、郡内では一番の格式もあり、末寺が29寺もある郡内地方の名刹と言えます。

長生寺

なお、良く見る小山田出羽守信有の肖像は、この長生寺に伝来しているものです。
小山田出羽守信有の肖像(リンク)

長生寺の駐車場は、道路から入って車道脇に3箇所程度あります。
一番手前の駐車場の場所は下記の地図ポイント地点となります。
地図は縮尺を変えてご覧ください。

桂林寺

山梨県都留市金井にある桂林寺(けいりんじ)の創建は明徳年間(1390年~1394年)とされ、富春寺と同じく、鎌倉建長寺の格智禅師を招いた、中津森館主・小山田富春(小山田出羽守富春)の開祖です。
末寺は東陽院・冨春寺などがあります。

桂林寺

桂林寺には郡内で唯一の小山田家の墓所(廟所)が、本堂の左脇にあります。
更に上に進むと叶が池という水源もあるようです。
永録年間には、小山田信茂が桂林寺の諸堂を改修したとあります。

桂林寺

訪問した際(2015年10月)は、本堂の改築工事中で、資材も至る所に置かれていて、そんな中をのんきに進んでは、作業の妨げとなりご迷惑をお掛けしそうでしたので、境内の散策は遠慮させて頂きました。
その為、下記の小山田家一族墓の写真は、お寺さんのを拝借致しております。

keirinji2

冨春山桂林寺にある郡内小山田氏墳墓(墓碑)は下記の通りです。

6代・小山田出羽守信膳(元享院殿前法印一圭宗徳)
7代・小山田兵部小輔信惠(住法院殿円外浄心)
8代・小山田出羽守信澄(桂林寺殿桂堂香公)
9代・小山田出羽守信朝(小山田朝信)(東陽院殿功岩永公)
10代・小山田備中守信美(冨春寺殿功用勲公)
14代・小山田山城守信隆(福聚院殿徹山道隆)
15代・小山田越中守信有
16代・小山田出羽守信有  
17代・小山田出羽守信茂

桂林寺への行き方ですが、下記の地図ポイント地点が参詣用駐車場となります。
この辺り道路は狭く、特に桂林寺の駐車場への細い道路へ曲がる際、左折は困難ですので、市立病院がある東側から金井地区に入って、桂林寺には西へと進むように進入していくと良いです。

用津院

用津院(ゆうしんいん)は小山田耕雲が開祖とされ、鷹岳宗俊の開山による1474年の創建とされます。
小山田耕雲とは小山田信長の事です。
1511年、小山田出羽守信有の時に、長生寺の末寺となりました。

用津院

1601年には、郡内領主・鳥居成次が寺領2石8斗を寄進しています。
また、1836年8月に甲斐で起こった甲斐一揆の天保騒動の際に使用されたと言う竹槍が伝わっていると言います。

用津院

用津院へのアクセスですが、下記の地図ポイント地点に車を止めるスペースがありますが、ここも道路が狭いです。
城攻め(史跡巡り)は、軽自動車やバイクが良いと常々感じます。

中津森館跡

中津森(なかつもり)館は、別名として金井館、小山田氏館とも呼ばれます。

1521年には、武田信虎が中津森を訪問しました。

甲斐国史では「中津森の館跡は用津院ノ東ニ在リ」と記載されています。
その為、中津森館があった場所は、概ね下記の写真の台地先(こんもりした山の手前)だと考えられているようです。
標高464m、比高14mの中腹にある平坦地となります。
下記写真は北側から撮影したものです。

中津森館

鉄塔の近くに地元では泥堀(でいぼり)と呼ばれている堀のようなものもあるそうですが、現在は私有地のようでしたので、見学は遠慮させて頂きました。

用津院の裏山

用津院の裏山は小高い丘(写真)になっており、恐らく物見施設もあったと推測致します。

1530年1月7日、小田原城主・北条氏綱猿橋付近で小山田有信が対陣しますが、小山田氏が留守中の3月に北条勢の再侵攻があったようで、中津森館が焼失。
単独で反撃に出た小山田越中守信有は、1530年4月23日に、矢坪坂の戦い(上野原市大野)にて、北条氏綱を撃退しました。

その後、武田信虎の支援を受けて、小山田越中守信有は谷村館(谷村城)を築城し、本拠を移しました。


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交通アクセス・行き方ですが、この辺りへ電車で訪れる場合には、富士急行の都留市駅から徒歩20分です。
とにかく、金井地区の道は狭いですので、車が大きい場合にはご注意願います。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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