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鎮海山城 村上元吉の墓 長生寺と河野通直の墓

鎮海山城

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安芸・鎮海山城(ちんかいやまじょう)は、広島県竹原市にある標高93mの山城で、別名は竹原城とも鎮海城とも言います。
築城年は不明ですが、1585年に村上水軍村上武吉が築いたと考えられています。
1582年、明智光秀による本能寺の変のあと、豊臣秀吉毛利輝元が和睦すると、毛利家と豊臣家は村上水軍で早くから臣従した来島城主・来島通総(村上通総)を重用します。
そして、豊臣秀吉は来島通総(村上通総)の旧領である来島の返還を要求しますが、村上海賊の頭領・村上武吉は当然のように拒否します。
更には、四国攻めにも村上武吉と嫡男・村上元吉が参加しなかったことから、豊臣家に臣従していた毛利家・小早川隆景から村上武吉の本拠地・能島城は攻撃を受けました。


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これにより、村上武吉は本拠地・能島城を明け渡して降伏すると、小早川家の所領である竹原(広島県竹原市)に強制移住させられ、この鎮海山城を築いたものと考えられています。
九州攻めのあと、1586年に小早川隆景が筑前(福岡)37万石として移封されると、村上武吉も小早川家に従いましたので、在城期間としては短かったものと推測致します。

さて、鎮海山城への登城口は3箇所くらいありますが、今回は登るのには一番緩やかな北側となる、下記の地図ポイント地点から入りました。

北東にある竹原小学校と貞光両神社の間の道路を入って、鎮海山城(鎮海城)の東側に回り込みます。

貞光両神社

すると下記のような鎮海山城登城口の案内板がありますので、その通りに右折します。

鎮海山城への登城口

そして、下記の場所から山道へと入り、竹林の中を登って行きます。
竹藪の中を登って行きますが、遊歩道が整備されています。

鎮海山城(鎮海城)の登城口

本丸を中心にした、南北一列に9段の郭があったとされますが、ほとんど崩れてしまっているようで、見受けられません。

鎮海山城

村上武吉と嫡男・村上元吉は、小早川隆景が隠居すると、小早川秀秋に従って長門へと移りました。
1598年、豊臣秀吉が死去する直前に、村上武吉は豊臣姓を授かります。
そして、毛利輝元の命を受けて、竹原に戻ると鎮海山城主として4700石にて返り咲いています。

鎮海山城

鎮海山城の登城の方は、尾根に出ましたら右へと登るとまもなく本丸跡です。

鎮海山城

下記写真の上部先が山頂部となる鎮海山城の本丸です。

鎮海山城

その後、1600年の関ヶ原の戦いでは、村上元吉と弟・村上景親らは毛利勢に従って、伊勢湾沿岸、紀伊沿岸、阿波・徳島城を攻めました。

鎮海山城

しかし、加藤嘉明の伊予・松前城を攻撃した際に、佃十成より三津浜夜襲を受け、1600年9月18日、嫡男・村上元吉が討死してしまいました。享年48。
そして、毛利家は防長2カ国へと減封されたので、能島村上家は再度竹原を離れて、村上武吉は周防大島に渡り、1601年には和田に住みついたとされています。

鎮海山城

鎮海山城が機能していた頃は、すぐ麓まで瀬戸内海の海岸線が接近していたものと推測致します。

鎮海山城からの展望

来た道とは異なり、本丸部分から「北」へと傾斜を降りて行きます。

鎮海山城

ただし、こちらの道は細く、また結構、急なところもありました。
トレッキングポールはあった方がラクだとは思いますが、今回はナシでも踏破できています。

鎮海山城

しかし、写真のように昼間でも「フラッシュ撮影」でないと映らないほど、暗い森の中を降りて行くと言う心細い感じでした。

鎮海山城

夏場は虫除けも必須です。

村上元吉の墓

この鎮海山城・本丸から北へと降りると、道は途中から西へ向います。
だいぶ降りて行くと、開けたところ(中腹)に、関ヶ原の戦いの際に、伊予・松前城攻めにて討ち取られた村上元吉の墓があります。

村上元吉の墓

村上元吉の法篋印塔が1基あり、その脇には、松前城攻めにて討死した家臣の墓と考えられる五輪9基が並んでいます。

村上元吉の墓

村上元吉の墓

念の為、麓から村上元吉の墓へ直接入る「入口」の場所も地図で示しておきます。

下記の写真の場所から山に入って行くと、村上元吉の墓へとたどり着きますが、今回はココに降りて来たと言う事になります。
しかし、ここから山に入った場所は、5月の時点で、足元の道が隠れるほど「雑草」が茂っておりますので、できれば冬季の訪問が無難かも知れません。

村上元吉の墓への入口

ちなみに、村上武吉の墓は周防大島・元正寺にあります。

さて、鎮海山城の駐車場ですが、郷賢祠(きょうけんし)を祀った広場に駐車スペースがあります。
ただし、今回は、このように登って別の道で降りて来たかったので、道の駅「たけはら」に止めて、一周させて頂きました。

長生寺と河野通直の墓

なお、竹原・長生寺には伊予・湯築城主で、竹原へ移り住んだ河野通直の墓が残されていますので、道の駅にクルマを止めたまま、セットで訪れました。

長生寺

長生寺は小早川隆景が建立し、寺領200石を寄進しましたが、これは河野通直が死去し、家臣らが跡を追ったのを痛み、1587年に開山したものとなります。

長生寺

本堂には河野通直の位牌の他、村上元吉の位牌もあるそうです。
その他、境内には金毘羅社、大師堂、庚申堂などがあります。

長生寺

長生寺の本堂左手にある墓地の高い所に、河野通直の墓所があります。

河野通直の墓所

1585年、河野通直は、羽柴秀吉の四国攻めにて敗れて高野山に蟄居したあと、小早川隆景より竹原に住まいを与えられました。
しかし、24歳で病没し、家臣ら42名も殉死しています。

河野通直の墓

これは、河野通直の母は天遊永寿と言う、毛利元就の長女が産んだ娘で、小早川隆景の養女として河野通宣と再婚しており、永寿は「大方」と称されて、幼くして家督を継いだ河野通直を後見していた為、小早川隆景の領地に移り住んだと推定されます。

ただし、小早川隆景は天遊永寿から連絡を受けるまで、河野通直が竹原に入ったとは取らなかったと言う話もあります。
河野通直のために、わざわざ立派な菩提寺まで小早川隆景は建立していることから、河野通直は毛利家によって暗殺されたとも推測されています。


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他にも長生寺にし、甘藷先生、村上休広、シーボルトの高弟だった名医・日高涼台の墓もあります。
また、京都で公家に尊王論を説き、1796年に境内で自刃した唐崎常陸介や、寺本立軒、鈴木重仍らの墓も境内にあるそうです。

長生寺には駐車場が無いので、道の駅「たけはら」に車を止めたまま、徒歩にて向かいました。

竹原の街並み

長生寺のすぐ西側方面は、竹原市重要伝統的建造物群保存地区として古い町並みが残されていますので、時間が許せばセットでどうぞ。
長生寺と鎮海山城あわせての観光所要時間は約1時間でした。
マッサンでも有名になった竹鶴酒造さんも寄って来ましたよ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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