臼杵城とは
臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市大字臼杵丹生島にある連郭式平山城(海城)で、大友宗麟が丹生島城として築城したのが始まりと考えられます。
丹生島城、巨亀城、金亀城、亀城とも呼ばれ、築城年は1562年とされますが、それ以前から砦としての機能はあったようです。
高低差(比高)は20mです。
特に大友家の16代当主・大友政親(1444年~1496年)のときには、臼杵が本拠地となっています。
戦国時代の頃の丹生島(にゅうじま)は、臼杵湾に浮かぶ島で、干潮時だけ陸続きとなる天然の要害でした。
大友義鎮(大友宗麟)は干潟を干拓し、城下街を整備していますが、大友宗麟を慕う多くのキリシタンが、府内から移住してきたと言います。
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大友宗麟は南蛮との貿易も積極的でしたので、臼杵の港にも南蛮船が良く寄港したとされ、九州一の大経済都市となりました。
ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスの記録では、臼杵城下に多くのキリスト教の施設となる教会堂・修道院、日本で最も大きくて美しい大聖堂があり、臼杵城内には礼拝堂もあったと言います。
そして、日本中からキリシタンが訪れていたとも記載されています。
1579年から2年間、田原親貫の反乱を鎮圧すめため、大友義鎮(大友宗麟)は一時、府内(大分城)に政庁を移していますが、大友家が改易されるまで臼杵城が本拠地であったと考えられています。
1586年12月12日、戸次川の戦いで長宗我部信親や十河存保など豊臣勢・仙石秀久らの援軍が敗れると鶴賀城も陥落します。
そのため、大友義統は本拠地・府内城(大分城)を放棄し、大友宗麟の本拠地・丹生島城(臼杵城)に合流して立て籠もりました。
そして、島津家久は隠居している大友宗麟の丹生島城(臼杵城)を包囲しました。
この時の丹生島城の戦い(臼杵城攻防戦)で、大友勢の武宮親実(武宮武蔵守親実)が「国崩し」(石火矢)と呼ばれた、ポルトガル製の大砲「フランキ砲」を使って応戦しています。
また、大砲攻撃で混乱する島津勢に対して、臼杵鎮順、柴田礼能、柴田統勝らが城から討って出て、一矢を報いています。
更に、古庄丹後入道、葛西周防入道らが島津勢を蹴散らしていますが、いずれも鉄砲や大砲を駆使した作戦でした。
しかし、キリスト教の建築物や南蛮文化が栄えた臼杵の町は大きな損害となり、灰燼に帰してしまいましたが、大友宗麟は再三に渡り豊臣秀吉に改めて九州出陣を要請します。
こうして、豊臣勢の本隊による九州攻めで、島津勢は撤退を余儀なくされます。
臼杵城をなんとか死守し、大友家滅亡の危機を乗り越えた大友宗麟でしたが、1587年5月6日に死去しました。
ただし、臼杵公園となっていますので、車でも直接、臼杵城の二の丸へと、北西の出入口から上がる事ができます。
しかし、クルマで上がっても、見どころを見学するには、結局は麓の追手口(大手口)の辺りまで降りて来る事になる為、散策も兼ねて麓から歩いて進入致しました。
下記は畳櫓(現存建築)です。
大友義統が、朝鮮攻めでの失敗で1593年に改易されると、臼杵には福原長堯(福原直高)が6万石で入りました。
1597年、福原長堯(福原直高)は12万石となり、府内新城(荷揚城)を本拠としています。
代わりに臼杵城に入ったのは太田一吉で、当初3万5000石でしたが、のち6万5000石になっています。
下記は大門櫓です。
この二の丸大手門に当たる大門櫓は、2002年に木造で復元されました。
1597年になると、太田一吉は臼杵城の改修と城下街の復興を行っています。
そして、臼杵城の北西部にあった祇園洲に三の丸を造営し、大手門を現在の場所に移し、今のような臼杵城の原型ができました。
1600年、関ヶ原の戦いでの際、石田三成とも親しかった太田一吉でしたが、甥の太田政成を東軍に参加さ、子の太田一成は西軍に加えさせました。
そして、自身は臼杵城に籠ったのですが、この中途半端な態度が西軍に味方しているとされ、中津城にいた黒田官兵衛(黒田如水)、岡城の中川秀成ら東軍からの攻撃を受けます。
そのため、太田一吉(おおた-かずよし)は降伏しました。
下記は二の丸跡です。
のあと、郡上八幡城主・稲葉貞通が50000石にて臼杵城主となり、その子・稲葉典通の代まで、臼杵城の改修がされ、現在のような姿になったようです。
その後、明治維新まで、稲葉氏が15代続いています。
現在は臼杵公園となっており、二の丸跡には護国神社(稲葉神社)があります。
石造りの大きな金葛籠には、元々天守閣にあった財宝を入れていたとの話があります。
なお、天守は3重4階だったとされています。
二の丸には大友宗麟のレリーフもありました。
下記は卯寅口門脇櫓で、現存建築となります。
臼杵城への交通アクセス
臼杵城へのアクセス(行き方)ですが、JR日豊線の臼杵駅を下車して、徒歩10分(裏手の入口だと徒歩5分)です。
臼杵城(丹生島城)へのアクセスですが、私が利用した駐車場(タイムズ)(24時間)は下記の地図ポイント地点の場所となります。
臼杵城の観光所要時間は、約40分といったところです。
臼杵の城下町の風景
臼杵には「二王座歴史の道」と呼ばれる地区があり、かつての城下町の雰囲気を色濃く残しています。
稲葉家下屋敷は漆喰の土蔵や土塀になっており、まさに上級武士の屋敷と言えます。
坂道の石畳は臼杵産出の臼杵石を使用しています。
城下町の散策時間は約20分、稲葉家下屋敷と旧平井家住宅は、ひとつの入口からの有利拝観で両方セットとなっており、見学所要時間は20分といったところです。
下記は平井家住宅です。
臼杵の街には観光用の駐車場も点在しますので、稲葉家下屋敷などで観光用のパンフレットを手に入れると良いです。
ただし、昔ながらの城下町で、道路は広くありませんので、運転にはご注意を。
臼杵城・稲葉家下屋敷と旧平井家住宅・二王座歴史の道も散策しますと、1時間では足りません。
臼杵・黒島に漂着したウイリアム・アダムス
余談ですが、1600年春、臼杵市佐志生の黒島に一隻のオランダ船「リーフデ号」が漂着します。
出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていたと言う過酷な旅でした。
航海長はイギリス人であるウイリアム・アダムス(37歳)で、イギリス人としては日本を訪れた初めての人物となります。
水先案内人はオランダ人の「ヤン・ヨーステン」でした。
臼杵城主・太田一吉は手助けして乗組員らを救出すると、長崎奉行・寺沢広高に報告しています。
この2人は大砲などの武器を操作する技術、西洋の最新技術を買われ、徳川幕府の外交顧問として活躍します。
そして、ウイリアム・アダムスは、250石を徳川幕府から受け、日本名・三浦按針を名乗り武士として生きる道を選択し、妻にお雪(マリア)を迎えています。
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ちなみに、globeのボーカルで、小室哲哉さんの奥様だったKEIKO(本名・山田桂子)さんは、大分県臼杵市の出身です。
実家は臼杵で有名なフグ料亭「山田屋」さんで、臼杵城からは南側に位置する大きな老舗です。
・大友宗麟(大友義鎮)~国崩し・豊後の王
・太田一吉~文官派として大分の臼杵城にて籠城した西軍の将
・福原長堯(福原直高)とは~大垣城を最後まで守った西軍忠義の武将
・府内城(大分城、荷揚城)を築城したのは?~大分城の訪問記
・奈多夫人~キリシタンの家臣が多い中でも最後まで拒んだ女性と奈多宮
・大友義統とは~逃亡・改易・失脚・幽閉となった稀代の凡将?【大友氏館も】
・長宗我部信親とは~戸次川の戦いで無念の壮絶な最期を遂げる
・西美濃三人の稲葉一鉄とは~曽根城主の稲葉貞通と深芳野も
・稲葉一通と多羅の臼杵・法音寺~その系譜は今上天皇まで繋がる・・
・中川秀成と虎姫とは~周りに惑わされることなくお互いを理解したふたり
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