大分県

府内城(大分城・荷揚城)を築城したのは?【日本100名城】

府内城

スポンサーリンク



内城大分城)とは

府内城(ふないじょう)/大分城(おおいたじょう)は、荷揚城、白雉城とも呼ばれる梯郭式平城で、大分県大分市荷揚町にあります。
史料や書籍によって、大分城、府内城、荷揚城と色々な名称で表現されているのが特徴です。
大分府内城として、日本100名城にも選ばれました。
1593年に、豊後の大友吉統が改易されますが、それまで府内城(大分城)は使われなかったようで、1586年、戸次川の戦いで焼失した大友氏館(大友館)を再建し政庁としてと考えられます。

その大友吉統のあとには、早川長政が代官として大分に赴任し、1594年に大分で13000石の大名に取り立てられました。
しかし、この早川長政も引き続き大友氏館(大友館)を使用していたようです。


スポンサーリンク



早川長政は1597年の朝鮮攻めの際に、援軍として落ち度があったとされ改易となり、豊後・木付(杵築城)にて謹慎となりました。
そして、大分に入ったのが、石田三成の妹婿・福原長堯(福原直高)と言う事になります。
この福原長堯(福原直高)が、1597年から府内城(荷揚城)の築城を開始したとされます。
荷落の地に新城を築くことから、縁起を担いで荷揚城と命名したのが府内城と言う事になります。

大分城(府内城)

しかし、1599年に徳川家康に睨まれて失脚すると府内領は没収されて、福原長堯(福原直高)は臼杵城6万石として移りました。
そして、早川長政が再び2万石で復活し、府内城(大分城)に入ったのです。

大分城(府内城)

ただし、1600年、関ヶ原の戦いでは、福原長堯(福原直高)と早川長政は両人とも石田三成に協力します。

大分城

福原長堯(福原直高)は、石田三成が敗走したあとも、大垣城にて最後まで抵抗したことから、切腹(または殺害)となりました。

大分城の稲荷神社

早川長政は所領没収・改易となり、のち大阪の陣では大阪城に入ると、真田信繁(真田幸村)の寄騎として共に戦っています。

大分城

関ヶ原の戦いの後には、豊後・高田城から竹中重利が3万5000石で入封し、府内城(大分城)の工事を再開しました。

1602年には、大分城(府内城)の4層の天守、諸櫓、山里曲輪、内堀が完成。
大分城(府内城)の天守台

石垣の築造には、加藤清正配下の石工、大阪城や伏見城から大工や瓦師を招くなどし、最先端の技術にて1607年頃には概ね、大分城の普請も完了したと言います。

府内城

また、港や城下町も整備するなど、現在の大分市の発展の基礎を築きました。


スポンサーリンク



現存するのは西丸の宗櫓(平櫓)と本丸の人質櫓(二階二層)の2基の櫓となります。
復元されているのは、西丸西南隅櫓、着到櫓(東丸)、東丸東北隅櫓、東丸東南隅櫓、二の丸多門櫓、西丸と山里丸を結ぶ廊下橋などです。
廊下橋は山里丸と西丸を結ぶ橋で、平成8年に木造復元されました。
復元とは言え、屋根橋は、なかなか珍しいです。

大分城の廊下橋

下記は松栄神社です。

松栄神社

府内城(大分城)への交通アクセス

さて、府内城(大分城)へのアクセス・行き方ですが、JR大分駅からですと、約1.5km、徒歩15分といったところです。

駐車場は下記の地図ポイント地点が入口となります。

大分城の見学所要時間ですが、駐車場からざっとみて、約30分程度でした。
また、近くには竹中重利の墓もありますので、セットでどうぞ。

大友義統とは~逃亡・改易・失脚・幽閉となった稀代の凡将?
福原長堯(福原直高)とは~大垣城を最後まで守った西軍忠義の武将
竹中重利とは~大分城(荷揚城)を大改修し大分市の礎を築いた武将
臼杵城と丹生島城の戦い~オランダ製大砲の国崩しで島津勢を蹴散らす
志賀親次と岡城~荒城の月の舞台でもある見事な山城の岡城
木付鎮直と木付統直とは~杵築城の戦い・石垣原の戦い【杵築城訪問記】
早川長政(早川長敏)とは~真田幸村とも共に戦った戦国末期の大名


スポンサーリンク



コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

城迷人たかだ

投稿者の記事一覧

高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

都道府県別


スポンサーリンク

只今人気のお城

城めぐり 2400城超えました

城めぐり
PAGE TOP