岐阜県

郡上八幡城(続日本100名城) 失敗しない訪問方法 東常慶と遠藤盛数の争い

郡上八幡城

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郡上八幡城とは

岐阜県の郡上八幡(ぐじょうはちまん)は、岐阜県郡上市八幡町柳町にあり、長良川の支流、吉田川の右岸にある牛首山(八幡山)の標高332m(当方の実測)が郡上八幡城の本丸になる山城です。
麓にある郡上八幡博物館の標高との差で比高は105mと堅固な城で、別名は、積翠城、郡城、虞城です。
郡上八幡は、古い城下町の街並みが残されており、国の重要伝統的建造物保存地区にも選ばれている湧水の里になっています。
その城下町を眼下に望む牛首山に築かれたのが、郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)となります。
「平山城」として紹介する書籍などもありますが、私は安土城と同様に「山城」だと思います。


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鎌倉時代の1221年に、千葉氏の支流である東胤行が、恩賞として美濃・山田荘(岐阜県郡上市)を与えられ、篠脇城を居城としました。
以後、この東氏が郡上八幡の地も治めましたが、戦国時代の1541年に越前・朝倉義景が侵攻した際に、篠脇城が大きく破損します。

その為、当時の篠脇城主・東常慶(とう-つねよし)は、かつて東益之が築いた東殿山城(とうどやまじょう)を本格的な城とし、子の東常堯に守備させました。

東殿山城

東常慶は、子の東常堯が悪逆非道だった為、一族の鶴尾山城・遠藤盛数を婿養子に迎えて跡取りとします。
これらの事を恨んだ東常堯は、1559年8月1日に遠藤盛数の兄・遠藤胤縁を東殿山城にて暗殺しました。家臣・長瀬内膳に命じて鉄砲を撃たせたとあります。
その為、兵を挙げた遠藤盛数は東殿山城の対岸となる、牛首山(八幡山)の上に砦を築きました。これが、最初の郡上八幡城の原型です。

そして、遠藤盛数は東殿山城を陥落させ、養父の東常慶を討ち取り、東氏に代わって郡上を支配しました。
なお、子の東常堯は飛騨・帰雲城の内ヶ島氏を頼りましたが、のち1586年11月29日の「天正大地震」の際、飛騨・帰雲城が大規模な山崩れで埋没し、城主・内ヶ島氏理らの一族は全員死亡して滅亡しています。
この震災にて東常堯も死去したとされています。


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話を戻しますが、遠藤盛数(えんどう-もりかず)は、上記の通り1559年に八幡山の砦を改修し「郡上八幡城」を築城しましたが斎藤義龍に恭順し、井ノ口(岐阜市)にて1562年10月14日に死去しています。
その後は、1550年に生まれていた子の遠藤慶隆(えんどう-よしたか)が跡を継ぎましたが、まだ13歳であった為、遠藤盛数の未亡人(東常慶の娘)を、関城主・長井道利と再婚させ、長井道利が遠藤慶隆の後見となりました。

この遠藤慶隆の話は、少し長くなりますので、別ページにて詳しくご紹介させて頂いております。

遠藤慶隆~没収された郡上八幡城主に見事復帰した戦国大名

ちなみに、郡上八幡城は、石垣なども見応えありますが、日本100名城には選ばれていません。
このように、日本100名城の選考は、無理やり100個にしたような部分があるため、私は、そんなスタンプラリーはやっていません。
例え石垣しか残っていないような城でも、良い縄張りであったり、かつては名城だったのではと思える城跡もたくさんあります。
そんな行って見たい「日本の城」と言うものは、数では無く、むしろ他人が決めた城と言う事でもなく、皆さまお一人お一人が素晴らしいと感じた城が「名城」なのだと、私は考えております。

そんな、総石垣の郡上八幡城へと大改修したのは、西美濃三人と称された稲葉一鉄の子である曽根城主・稲葉貞通です。

郡上八幡城

郡上八幡城の遠藤慶隆は、1583年の時、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いの際、柴田家に味方した岐阜城主・織田信孝に協力した罪を、突然問われます。
1588年になって、豊臣秀吉は遠藤慶隆を領地替えにして減封し、代わりに稲葉貞通を4万石にて郡上八幡に入れました。

郡上八幡城

現在、郡上八幡城を見学する場合には、下記のような構造となっております。

郡上八幡城の案内図

訪問した日は、雨が降ったり止んだりと言う日でした。

郡上八幡城

訪問した際には、ちょうど雨がやんでいたのですが、ご覧の通りの曇り空ですので、写真にてお見苦しい点はお許し願えますと幸いです。

郡上八幡城

こんな山の上に石垣を築くのは、今でも大変なくらいでして、当時も難工事だったと言います。

郡上八幡城

建設中には石垣が度々崩落したため「人柱」を行う事になったと言います。
天守の主柱を栗巣村(大和町)から切り出した際に、その巨木を神路村まで運ぶと、そこから動かくなったと言います。

郡上八幡城

その時、「およし」と言う娘が、木に手を添えると、不思議と動き出したと言う事で、人柱には19歳のおよしが選ばれたと言う事です。
天守閣前に、およしの霊を祀る観音堂があります。

郡上八幡城

郡上八幡城の現在の天守は、昭和8年(1933年)に建てた模擬天守です。

郡上八幡城の天守

下記の写真にあるのが、天守への入口(玄関)となります。

郡上八幡城の天守入口

模擬と申しましても、当時、現存国宝だった大垣城の天守を参考に「木造」にて建設した「模擬木造天守」でして、内部は昔のままのように感じます。
そして、天守の中を歩くと、ギシギシと木がしなる音がします。

郡上八幡城の内部

なお、大垣城は太平洋戦争にてアメリカ軍の空襲でその後焼失しましたので、ここ郡上八幡城の天守は、いわば大垣城の子供とも言え、そのような意味では大変貴重です。
大垣城もその後、天守が復興していますが、コンクリートの模擬天守であり、外観はここ郡上八幡城の天守を真似ています。

郡上八幡城

下記は天守閣から眺めです。天気が悪くて、すみません。

郡上八幡城からの眺め

ご覧の通り、低地部分は、民家がギッシリでして、いかにも城下町と言う雰囲気満点です。

郡上八幡城の城下町

下記は夏に訪問させて頂いた際に撮影した郡上八幡の様子です。

郡上八幡

遠藤慶隆が八幡城主として復帰した際に、郡上八幡城の追加改修を行いましたが、この時、怪力の持ち主であった赤髭作兵衛が、城下の吉田川からひとりで運んだと言う「ふたつの石」があります。
その姿を見た普請奉行が、非常に褒めたと言いますが、赤髭作兵衛はその場で倒れてしまいそのまま亡くなったとと伝わります。
そのため、この石の使用を禁じたため、天守近くに放置されていましたが、昭和8年に現在のように整備したとの事です。

ふたつの石

駐車場の一角にある「首洗いの井戸」(血の井戸)は、首実検の前に討ち取った敵の首を洗ったとされています。

首洗いの井戸

山内一豊と千代の像

郡上八幡城に登る山麓途中の公園に「山内一豊と千代の像」があります。

山内一豊と千代の像

慈恩寺が所蔵する美濃・郡上八幡城主・遠藤氏の系図には、郡上八幡城を築城した遠藤盛数の娘が、山内千代だ記載されています。
1562年、遠藤盛数が死去した際に6歳だった千代は、母・東常慶の娘が関城主・長井道利と再婚したため、どうも、連れ子となったようです。
山内一豊と千代が結婚したのは、1570年頃とされていますので、姉川の戦いがあった頃です。

山内一豊と山内千代

この姉川の戦いには、千代の兄とされる遠藤慶隆や遠藤慶胤も織田信長に従って出陣していますので、千代が遠藤家の娘だとすると、木下秀吉(豊臣秀吉)とも接点があったとは充分に考えられ、山内一豊の妻になった可能性もあります。

郡上八幡城

ただし、千代(見性院)は、山内氏系譜ですと、浅井長政の家臣・若宮友興の娘と記載されています。
その場合、米原の飯村出身と言う事になります。
他にも安藤守就の娘、不破重則の妹と言う説もある他、出自不明と記載されている文献も多いです。
要するに、簡単な話、良くわかっていませんが「良妻賢母」で知られる千代は、のちの世でそれだけ注目されたのだと言えるでしょう。

下記は郡上八幡城と城下町の様子です。

郡上八幡城

結構、技巧を凝らした縄張りでして、山城に天守がある城としては、非常に見どころもあります。

郡上八幡城

見学所要時間は、駐車場からで約20分~30分といったところです。

郡上八幡城

麓の郡上八幡は、湧水が豊かな事でも知られる水の里です。

郡上八幡城

下記のような古い町並みもあり、時間が許せば、是非、麓も散策されることをお勧め申し上げます。

郡上八幡の街並み

郡上八幡城の駐車場

郡上八幡は街の中にも何箇所か駐車場がありますが、郡上八幡城を見学される場合には、山の上、天守の脇となる駐車場があります。
ので天守脇の駐車場が大変便利なのですが、存在を知らないと、歩いて、麓から登ってしまうので、失敗しないよう、お願い申し上げます。
この駐車場は巨大な堀切跡で、湿地帯になっていたと言います。

麓にある山内一豊と千代の像の近くの駐車場付近から「一方通行」で山の上に登れる舗装路があります。

郡上八幡城の登城道

その道を登って行けば、天守脇の無料駐車場まで、車で上がれます。
ただし、カーブがキツく、曲がりにくいところがあることから、乗車定員6人以上の車輌(ミニバンなど)は通行禁止ですので、ご注意願います。
また、前日に雨が降った場合などには、路面がウェット状態になることから、クルマの通行が許可されていても、バイクは禁止と言う事もありますが、転倒してケガをしないためのですので、理解したいところです。

その天守脇の郡上八幡城駐車場(20台)は下記の地図ポイント地点です。

郡上八幡は、そもそもどこぞや?と言う方が多いと思い、上記のような縮尺にしております。
実際の駐車場場所は、地図の縮尺を変えてご覧願えますと幸いです。
駐車場への一方通行(登坂路)の入口は、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
道路は歩いている方もいますので、ご注意願います。

ちなみに、山内一豊と千代の像から歩いて登ると、かなりの階段で約20分となりますので、長良川鉄道の郡上八幡駅からタクシーがお勧めです。
帰りは下り坂ですので、歩いても良いですしね。


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なお、郡上八幡は高速「東海北陸道」を北へと1時間も走ると、豪雪地帯で知られる「白川郷」です。
冬季には郡上八幡も積雪で、山に登る道も凍結しますので、冬にはスタッドレスタイヤ必須です。
また、年末年始頃には約20日間、郡上八幡城もお休みとなりますので、こちらもご注意を。

開館時間は季節によって異なりますので、公式HPにてご確認願います。

なお、郡上八幡を色々と見学されるのでしたら「城・博覧館共通券」や「郡上八幡みどころ通行手形」と言った、セットの割引料金も設定がありますので、お勧めです。

郡上八幡に宿泊するなら

郡上八幡にて泊まるのであれば、下記の【広告】郡上八幡ホテル積翠園さんだと、郡上八幡城に最も近くなります。
ここから歩いてでも、お城に行けます。(行きは坂道ですが・・。)

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下記のように古民家をホテルにした宿泊施設もあり「町家暮らし」を体験できます。
1棟貸切のルームチャージ料金(1部屋6名定員)です。
※ルームチャージと言うのは、一人当たりの宿泊料金ではなく「部屋単位」での料金で、定員内でしたら何名で泊まってもOKです。

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今回は、帰りの新幹線(岐阜羽島から)があったので、街の方まではゆっくり見学できませんでした。
2回目の訪問時には、このあと、福井城まで抜けて行くため、同様に長い時間いられませんでしたが、街中も非常に雰囲気も良いところです。
是非、今度は宿泊でもして「ゆっくり」と巡りたいなと思える名水の里「郡上八幡」でした。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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