高知県

窪川城 林一吉が入った土佐の山城

窪川城

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窪川城(くぼかわ-じょう)は、高知県高岡郡四万十町西原にある標高372m、比高160mと堅固な山城で、別名は、久保川城、茂串城(しげくし-じょう)、茂串山城と言います。
鎌倉時代から一条氏の領地である仁井田庄にありますが、最初の築城は不明です。
戦国時代には、仁井田五人衆のひとりである窪川氏が城主でした。
仁井田五人衆のメンバーとしては、他に、土佐・西氏、土佐・東氏、土佐・西原氏、志和氏がいますが、西氏や東氏など、もはや、ややっこしいです。
その中でも、一番の勢力を誇ったのが窪川氏で、1500年に、窪川宣澄(窪川備後守宣澄)が窪川館と、茂串山に久保川城を築いて本拠とし、窪川氏を名乗りました。

この窪川宣澄の出身は2説あり、相模国鎌倉郷の山内首藤氏の出身である土佐・吉田氏の吉田周孝(吉田備中守周孝)の系統と、津野・半山郷の津野氏の一族ともあります。
土佐・吉田氏としては、長宗我部国親の宿老に、智謀に優れた吉田孝頼がいますが、関連性は不明です。
いずれにせよ窪川宣澄(山内宣澄)は、2600貫で、姫野々城主・津野元実に従ったようです。


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しかし、1517年、土佐一条氏の家臣で福井玄蕃に奪われていた土佐・戸波城を、津野元実が攻めた際に敗れ、のち津野氏は土佐一条氏に降伏しました。
そのため、窪川氏も中村御所の一条氏に従いましたが、長宗我部元親の勢力が拡大すると、1571年、山内宣秋のとき長宗我部氏に降伏しました。

窪川宣澄の子・窪川俊光(くぼかわ-としみつ)は、山内俊光・窪川充秋(窪川七郎兵衛)とも称したようですが、1579年、伊予国宇和郡の岡本城を攻撃した中に、伊予岡本館の戦いで、土居清良の奇略にあい、佐川城主の久武親信(長宗我部親信)と共に討死しました。

家督を継いだのは弟・窪川宣秋(窪川七郎左衛門)と推測されますが、1596年、朝鮮攻めの際に、長宗我部元親に従い討死したようで、窪川氏は断絶したようです。

窪川城

1600年、関ヶ原の戦いのあと、高知城に入った山内一豊は、窪川城には家老の林一吉(林伊賀守)を仁井田・窪川5000石で配置しました。
林一吉(はやし-かつよし)は、織田信長の筆頭家老・林秀貞の3男で、1582年に明智光秀本能寺の変を起こすと、姫路城に駆け付けて山内一豊に仕えたようです。
新田開発なども行い古渓城に新城も築きましたが、1604年に林一吉は死去し、子の林勝久(はやし-かつひさ)が家督を継いでいます。
林勝久は家老として、土佐藩2代藩主・山内忠義に従い大坂の陣で武功を挙げ、山内姓を許されたようで、山内右近とも呼ばれ、窪川土居主・窪川山内氏となりました。


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窪川城への交通アクセス・行き方ですが、JR窪川駅にて下車して徒歩10分で登城口となります。
四万十交通バスの場合、本町バス停で下車して徒歩5分です。
登城口は岩本寺の南側にあり、岩本寺の駐車場も拝借できるようで、城跡には、曲輪、土塁、畝状竪堀、堀切などがあるようです。

このあとは、土佐・中村城へ向かいました。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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