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土佐・本山城の解説~本山茂宗を2分でわかりやすく

土佐・本山城

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土佐・本山城とは

土佐・本山城(もとやまじょう)は、高知県長岡郡本山町本山にある山城で、標高372m、比高120mほどになります。
最初の築城としては、清和源氏の流れをくむ土佐・吉良氏の庶流・八木伊与典ともされますが、平氏である但馬国造・八木氏の一族ともされます。
100%そうですとは申しませんが、このような伝承ケースの場合、だいたい両方正解ですので、吉良氏から但馬・八木氏に養子などで入ったか、その逆かで、本山の八木氏がいたのでしょう。
八木康教と言う人物が紀貫之の「土佐日記」にも出てきますので、平安時代から本山を治めていたようです。
鎌倉時代入ると、左近将監八木為時・八木有時、南北朝時代には八木康綱の名が見受けられます。
八木氏は本山姓を称するようになっていて、本山豊前守八木清茂と言う記述もあります。


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本山養明の子である本山茂宗のとき、本山氏は土佐で最大勢力まで発展しました。
本山茂宗(もとやま-しげむね)は戦国時代の1508年に生まれましたが、その頃、父・本山養明は、長宗我部兼序岡豊城を陥落させています。
弟に本山茂宗、本山茂定がいます。

大変武勇ある武将で、平野部の侵攻して経済力もつけ土佐・朝倉城に本拠を移し、土佐・本山城は子の本山茂辰に任せ、最盛期を築きました。
なお、本山茂辰は、長宗我部国親の娘を正室に迎えています。
1555年に本山茂宗が死去すると、子の本山茂辰(もとやま-しげとき)が家督を継ぎます。
本山茂辰は、吉良城の吉良宣直を討ち取り、土佐・吉良氏を滅亡させました。
しかし、土佐・中村城一条兼定と対立し、更には長宗我部国親が反旗を翻し、1560年、長浜の戦いにて土佐・浦戸城も失い衰退します。
1563年には、土佐・朝倉城を捨てて、本山城に戻りましたが、まもなく行方不明となりました。
自刃した可能性もあるでしょうが、病死ともされています。
土佐・森城の森孝頼が寝返って、本山城が陥落したともあります。


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こうして、土佐・本山城も失い、跡を継いだ本山親茂は瓜生野城で抵抗を続けましたが、1571年降伏し、以後、長宗我部氏の重臣となっています。
その本山親茂も、1586年、戸次川の戦いで、長宗我部信親と共に討死しました。享年42。

なお、土佐・本山城は、山城と申しましても、本山町の南にある田井山(標高818m)など、高い山のてっぺんが城跡と言う事ではなく、山から延びている低い尾根の先端部、街に近いところに城を築いていたようです。

土佐・本山城

麓に、江戸時代・土佐藩の土居屋敷跡がありますので、山城のほうは、まぁ、詰の城と言う事でしょう。
本山町役場の南にあるコミュニティセンター前に大きな案内板がありました。
登山口は十二所神社の近くにあります。

土佐・本山城への交通アクセス・行き方ですが、高知駅バスターミナルからとさでん交通バス・県庁前−田井出張所(岡経由)・田井出張所行に乗車して90分、本山プラチナセンター前バス停にて下車し、南へ徒歩10分程で十二所神社となります。
列車の場合、大杉駅でバス乗換ですが、上記のとさでん交通バス田井出張所行に、乗り換えなくてはなりません。

四国の山間部は、冬には積雪もありますので、どうぞご注意を。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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