群馬県

上野・菅沼城 菅沼定清とは 安中の海雲寺は招き猫の寺

上野・菅沼城

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群馬県安中市の磯部温泉近くにある海雲寺(かいうんじ)は、招き猫の寺として知られますが、かつては「上野・菅沼城」(上野・菅沼館)で、菅沼定清と言う武将が城主でした。
上野・菅沼城は、群馬県安中市郷原にある平城(崖端城)と言う事になります。
菅沼定清(菅沼治郎右衛門定清)が、ここ海雲寺がある菅沼城主だった事も良くわかっていませんが、菅沼定清は菅沼定盈の一族と考えられます。
1573年、武田信玄による最後の戦となった野田城の戦いにて、陥落した際の野田城主が菅沼定盈でした。
この時、徳川家臣だった菅沼定盈は僅か500の城兵にて、約1ヶ月間持ちこたえ、最後には捕虜となり、のち人質交換となりました。


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1590年、徳川家康が江戸城に入ると菅沼定盈は1万石として群馬・阿保藩(あぼはん)の藩主となっています。
しかし、戦国末期の群馬に関しては、史料が乏しく良く分からない事があるのと同様に、この阿保藩も具体的にどの辺りだったのか不詳です。

いずれにせよ、徳川家臣であった菅沼一族も関東に移ったのには間違いなく、菅沼城主の菅沼定清(菅沼治郎右衛門定清)は、この磯部の統治を任されて代官的な立場となり、1592年~1593年頃に、この地に屋敷を構えたと推定されます。

いずれにせよ、代官として赴任した場合、新城を新たに築くとも考えにくく、ある程度、砦又は在地豪族の屋敷があった場所を改良・流用したものと推測できます。

菅沼城

なお、菅沼定清は関ヶ原の戦いのあとの消息が不明であることから、討死したのか戦傷で亡くなったのか?、残された家来や領民が、菅沼定清の菩提を弔うため、甘楽郡妙義町にある陽雲寺8世・天徳寛隆大和尚を招いて、海雲寺を創建したようです。
境内には、菅沼定清の墓もあるとの事でございます。


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念の為記載しておきますが、日本家系協会の資料では、治郎右衛門を名乗っているのは長篠菅沼家の俊弘の系統なのですが、菅沼定清の名はありません。
また真田昌幸の家臣にも菅沼治郎右衛門がおり、恐らくは武田家に味方した方の菅沼家だと存じますが、もともと菅沼家は3系統あることからも、どの系統なのかは不明です。
阿保藩主となった菅沼定盈も、子供は娘も含めると12人いるとの事でして、一族はたくさんいることから、この菅沼城の菅沼定清は、子供の1人なのかな?と言う気は致します。
しかし、菅沼家は一族の家紋だけでも30種類以上あり、確かめるすべはもはやありません。

ページトップにある山門は薬医門です。

菅沼城(菅沼館)がある場所ですが、下記の海雲寺の敷地がほぼそのまま菅沼城と思われ、南は碓氷川、3方は土塁や堀で囲まれています。

今回は、柳生殿のご案内の元、クルマで外から拝見させて頂きましたが、必要があればまた再訪したいと存じます。

海雲寺(招き猫の寺)

安中・海雲寺は、招き猫の寺としても知られているようで、境内には「招き猫」もたくさん安置されているようです。
これは、東京にある招福観音・豪徳寺から海雲寺の住職が分身を勧請したとの事です。
どうも、海雲寺の住職が、豪徳寺で修業した縁で、招福観世音を祀るようになった模様です。


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ちなみに、東京・豪徳寺は彦根藩主井伊家の菩提寺で、大老・井伊直弼の墓もあるなど、井伊家墓所は国史跡にもなっています。
豪徳寺と招き猫の由来などは下記にてご案内させて頂いております。

世田谷城 奥州・吉良氏による東京の城跡
野田城跡と野田城の戦い 訪問記・写真集
下曽根信照・下曽根信正・下曽根信由と下曽根氏の墓がある信照寺
磯部城の訪問記~手つかずの遺構が残る安中・磯部城
後閑氏の存亡と後閑信純とは~後閑城の訪問記
井伊直虎の元で活躍した井伊家の重臣・菅沼忠久に関してはこちら


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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