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若狭・国吉城(佐柿国吉城) 粟屋勝久 受験生に最適「落ちない」山城 (続日本100名城)

若狭・国吉城(佐柿国吉城)

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若狭・国吉城(佐柿国吉城)とは

若狭・国吉城(くによし-じょう)は、福井県美浜町佐柿にある標高197m、比高140mの山城です。
城跡はとてもよく整備されていて、遺構も残っていることから、続日本100名城にも選ばれました。
国吉城と言う名称の城跡も意外と多く、備中・国吉城、土佐・国吉城、伊予・国吉城とありますので、混同しないよう注意が必要で、佐柿国吉城と書く場合もあります。
とは言え、続日本100名城になった若狭・国吉城が一番よく知られているでしょう。


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最初の築城時期は不明ですが、地元の豪族・佐柿氏が築いたとされますが、子細は不明です。
戦国時代の1556年には、粟屋勝久(粟屋越中守勝久)が、古い城跡を整備・改修して国吉城と名付けたとされます。
粟屋勝久(あわや-かつひさ)は、後瀬山城主で若狭・武田氏の重臣で武田信豊に仕えていました。
なお、1556年と言うのは、ちょうど、武田信豊が次男・武田信方に家督を譲ろうとして隠居しましたが、嫡男の武田義統が実権を握り家督を継承したため、若狭武田家は内乱となっ年です。
そのため、若狭・武田家から独立した勢力となるため、必要に迫られて若狭・国吉城を整備したものと推測致します。

若狭・国吉城

武田義統は一乗谷城主・朝倉義景の支援を受けるようになったため、国吉城主・栗屋勝久と、高浜城逸見昌経は、まだ幼い武田義統の子・武田元明を擁立して籠城しました。
1561年には逸見昌経が敗れて、領地を捨てて、松永長頼を頼っていますが、粟屋勝久は下記の通り、若狭・国吉城を守り抜いています。

若狭・国吉城

武田義統と朝倉勢は、1556年、1563年、1564年、1565年、1566年、1567年と実に6回も攻撃を受けましたが、いずれも撃退しました。
しかし、1568年、朝倉義景は若狭に侵攻すると、若狭・国吉城、手筒山城などを陥落させています。(諸説あり)
そして、後瀬山城を包囲すると、親戚・親類だから保護すると言う名目にて、武田義統の子・武田元明は一乗谷に連れていかれて、事実上、若狭は朝倉氏が支配することになりました。

若狭・国吉城

1570年、織田家の丹羽長秀が侵攻してくると、栗屋勝久と逸見昌経らは織田家に臣従します。
粟屋勝久の正室は、丹羽長秀の娘です。
織田信長が朝倉氏を攻めた際には、若狭・国吉城(佐柿国吉城)にも本陣を置いて、2泊したようで、その後、武功を立てた粟屋勝久は賞賛されています。

若狭・国吉城

そして、若狭衆の一員として粟屋勝久も織田家で活躍し、1573年には一乗谷城の朝倉家は滅亡しました。
粟屋勝久は、一番乗りを果たして、幽閉されていた旧主・武田元明を救出しています。

佐柿国吉城

しかし、若狭・武田氏による若狭統治は認められず、若狭衆は後瀬山城に入っていた丹羽長秀の与力となりました。

1582年、明智光秀による本能寺の変となり、1583年、賤ヶ岳の戦いのあとと考えられるが、羽柴秀吉の命にて木村重茲(木村常陸介定光、きむら-しげこれ)が若狭半国を与えられて、若狭・国吉城主となりました。

若狭・国吉城

そして、佐柿に城下町が整備され丹後街道の宿場町となり、若狭・国吉城も石垣が設けられるなど大改修された模様です。

佐柿国吉城

粟屋勝久も羽柴秀吉に従っていたはずなのですが、高浜城の逸見昌経も死去したあと、子供の家督継承が認められていないことから、若狭・粟屋氏も同様だったようです。
粟屋勝久の孫・粟屋助太夫は、1614年から、豊臣勢として大坂の陣に参陣しており、その後は、藤堂高虎の家臣として取り立てられています。

若狭・国吉城

木村重茲(木村定光)のあとは、浅野長吉の家臣江口三郎右衛門、浅野平右衛門らが、1600年、関ヶ原の戦いの後、京極高次が若狭に入ると家臣の多賀越中が国吉城主になりました。
廃城になったあとでも、酒井忠勝は、若狭東部支配の拠点として、粟屋勝久館跡に佐柿奉行所を設置しています。

佐柿奉行所(御陣屋)

幕末には、京都にて捕縛した水戸・天狗党約110名を、小浜藩が預かった際に、佐柿にある藩士の屋敷に収容したとあります。


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若狭・国吉城(佐柿国吉城)への行き方

若狭・国吉城(佐柿国吉城)への登城ですが、月山富田城のように、つづら折りの階段になっており、本丸までは徒歩30分くらいの模様です。

若狭・国吉城(佐柿国吉城)

尾根の先は岩出山砦(いわでやまとりで)に繋がっています。
夏場はクマさんと熱中症に注意です。

続日本100名城のスタンプがある場所は、若狭国吉城歴史資料館になります。

若狭国吉城歴史資料館

資料館は100円で有料ですが、展示などはしっかりしていますので、お勧めです。
最近、はやりの神社の朱印状ならぬ「御城印」もあるようです。
何度も落ちなかった城ですので、受験にも落ちないと言う事で、受験生にも人気な合格祈願にもってこいの城跡です。

若狭・国吉城

若狭・国吉城へ交通アクセス・行き方ですが、JR小浜線・美浜駅より徒歩35分です。
駅からレンタサイクル(貸自転車・電動アシスト)もありますが、幹線道路はあまり幅がなく、自動車に追い越される場合などキケンですので、自動車をやり過ごすくらいの余裕があると良いかと存じます。
できれば、美浜駅からタクシー利用が良いでしょう。
クルマの場合には、資料館に無料の駐車場が完備されていますので、当方のオリジナル地図にて場所をポイントしておきます。


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今回は、熊出没情報もあり、登城は無理していません。
サルも良く出るようです。

なお、山麓の徳賞寺には栗屋勝久の墓といわれる五輪塔があるようです。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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