能登・飯田城は、珠洲市役所からほど近い石川県珠洲市飯田にある、標高48m、比高30mほどの丘城です。
奥能登の飯田は縄文時代の遺跡も豊富であるように古くから栄えていた街です。
そのため、飯田町遺跡など平安時代の生活跡も市街地から発見もされているようです。
奈良時代の貴族大伴家持(おおとものやかもち)は、746年に越中守になって越中・国府(高岡)に赴任しました。
そして、751年、京に返るまでの間に、春の出挙(すいこ)のため風光明媚な能登も訪れたようで、そのときの和歌が残っています。
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珠洲(すす)の海に 朝びらきして
漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり
出挙と言うのは、春に国司が官稲を農民に貸し与えて、秋の収穫のとき5割(又は3割)の利息をつけて返納してもらう、当時の税制度の事を言います。
ちなみに、この大伴家持は、のち蝦夷討伐の指揮官になって、陸奥の多賀城に赴きましたが、現地で没したとされます。
下記は、高岡駅前にある、大伴家持の銅像です。
更に、ちなみにですが、大伴家持の父である大伴旅人は、平成のあとの元号であ「令和」の出典となった万葉集の梅の詩が、大宰府で読まれた際の、歌会の主催者です。
飯田城と言いますと、どうしても、信濃・飯田城が思い浮かんでしまいます。
まぁ、そのとおりでして、ここ珠洲(すずし)の城跡としても、近くの正院川尻城のほうが知られています。
気を取り直して、能登・飯田城のご紹介に戻りますが、戦国時代に飯田与三左衛門が築いたとされます。
能登・飯田氏は地元の土豪で、遊佐続光の家来だったようです。
ただし、飯田与三右衛門長家と言う武将が上杉家にいたようで、同族の可能性もありますが、もはや不明としか言いようがありません。
1577年11月16日、上杉謙信が七尾城を包囲していたころと思われますが、能登国珠洲郡細谷村にあった神保越中守(神保長住)の所領89貫457文が、飯田与三左衛門?に与えられている書状が残っているようです。
この飯田与三左衛門が、飯田与三右衛門長家ともされます。
城址の東側に、道路が広いところがあり、そこに登城口となる階段が設置されています。
現在は、津波発生時の避難場所にも指定されており、本丸部分の草は刈られているようです。
能登・飯田城への交通アクセスですが、上記でご紹介した階段の場所を、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
正院川尻城とセットでどうぞ。
・令和 248番目の新元号は万葉集から 意味・由来は? 大伴旅人とは
・正院川尻城 長景連と能登最果ての栄華
・能登・崎山城 勇猛な三宅宗隆
・能登・越坂砦
・七尾城 畠山義統と畠山義総 上杉謙信との七尾城の戦い
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