千徳城(せんとく-じょう)は、岩手県宮古市千徳町にある標高80m(比高80m)の平山城です。
宮古湾に注がれる閉伊川、支流になる近内川が合流する地点の西の山が城跡になっています。
東西320m、南北に420mと、この辺りでは大規模な要害で、主郭、二の郭、三の郭、四の郭、五の郭からなる曲輪群もあります。
最初の築城は不明ですが、南北朝時代に千徳古館が築かれた模様です。
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なんでも、土岐氏の13代とする土岐孝長(土岐小太郎孝長)が、なんらかの理由で流罪となり、閉伊郡中村の郷にて蟄居したとあります。
通常、土岐氏(とき-し)と申しますと、美濃の土岐氏が有名ですが、土岐一族は各地にたくさんいます。
そのため、宮古に来た土岐氏が、どこの土岐氏だったのか?、よくわかりません。
ともあれ、仏門に入ると土岐入道貞庵(じょうあん)と号したそうで、土岐千徳氏の初代となりました。
その嫡男に土岐孝愛(土岐太郎八郎孝愛)がいますが、この頃、対岸の田久左利氏(田鎖氏)が野舘を築くと、酒に明け暮れていたため、諸浪人を集めて中村の地の領主(地頭)を宣言し、千徳城の築城を開始したとしています。
ところが、のち、河北閉伊氏が突然現れます。
閉伊氏(へい-し)と言うのは、鎌倉時代から宮古に入って、千徳城からは対岸にあたる田鎖城(たくさり-じょう)を本拠としていた豪族です。
その宗家は、城の名前と同じ田鎖氏を称したと言う事ですので、上記で記載した土岐千徳氏は、田鎖氏の領地で反乱を起こして、千徳城を築いたとも考えられます。
しかし、閉伊氏(田鎖氏)の一族がやがて千徳城も手に入れて、閉伊川より北の地を領有して河北・閉伊氏(へい-し)と称した模様です。
そのため、河北閉伊氏が、千徳城を築いたとする説もあります。
要は、よくわかりません。
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河北閉伊氏は宗家・田鎖氏を圧倒して勢力を拡大したようで、やがて南部家から敵視されるようになりました。
諸説ありますが、南部信時の家臣・櫻庭光康らが攻撃して、千徳次郎善勝(河北閉伊氏?)を滅ぼし、南部氏の一族である一戸政英が千徳城に入り、初代一戸・千徳氏となりました。
のち、千徳政吉が青森に移って浅瀬石城を本拠としたため、浅瀬石・千徳氏(あせいし-せんとくし)とも言います。
一戸政英(一戸信濃)が千徳城に入ったともされますが、戦功があった桜庭光康(さくらば-みつやす)は南部四天王と称された知略の武将で、晩年になって千徳城の城主になると、長根寺、善勝寺などに寄進しています。
この桜庭光康の次男が母方の伯父の北信愛の養子となって、北信景(きた-のぶかげ)と名乗りました。
ちなみに、北信景は、1600年、和賀忠親の一揆(岩崎一揆)の際に花巻城を救援して、一揆勢を撃退しています。
ともあれ、戦国時代に千徳城は拡大整備されましたが、千徳政氏のとき浅瀬石城に移ったため、千徳城は一族の一戸孫三郎が守りました。
なお、1592年、一戸孫三郎が朝鮮攻めにて肥前・名護屋城に参陣している間に、南部氏によって千徳城と、佐々木十郎左衛門の持ち城になっていた田鎖城は破却されました。
これは、豊臣秀吉の命令(一領主一城)もあって、南部領にて45もの城を破却、または一部破却した一環ではあります。
しかし、そのあと、一戸孫三郎の名が出てこないことから、この破却に乗じて、一戸千徳氏は南部家によって滅ぼされたと模様です。
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恐らくは、浅瀬石城の千徳政氏のとき1584年頃に、大浦為信(津軽為信)と同盟して、南部氏を裏切った経緯があったため、よく思っていなかったのでしょう。
南部氏も、裏切の要素は徹底的に潰して江戸時代を迎えていますので、その一環だったと推測致します。
・大槌城 三陸海岸屈指の規模を誇る山城
・狐崎城 狐崎館の戦い
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