尾張・末森城
末森城(すえもりじょう)は、愛知県名古屋市千種区城山町にある標高43mの平山城(比高20m)で、別名を末盛城とも書きます。
最初の築城は織田信長の父・織田信秀で、1548年に完成すると、古渡城から本拠地を移しました。
近くの守山城には、弟・織田信光が入っていますので、三河の松平家対策と推測できます。
1549年には、稲葉山城主・斎藤道三の娘・濃姫と織田信長が結婚していますが、1552年、織田信秀は末森城で病死し、織田信長が家督を嗣ぎました。(没年は諸説あり)
葬儀は菩提寺の萬松寺で行われています。
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そして、末森城には、織田信長の同母弟・織田信行が入っています。
しかし、織田信行は、大うつけと称された兄・織田信長に不安を覚えた、林通具(林美作守通具)、林秀貞(林佐渡守通勝)、柴田勝家などに担がれて、1556年、謀反を起こし、織田信長の蔵入地・篠木三郷を横領しようとします。
稲生の戦い
織田信行は、佐久間大学の名塚城を攻めようとして兵を繰り出し、織田信長は迎え討ったため、1552年8月24日、稲生の戦い(いのう-のたたかい)となります。
織田信長は、佐久間盛重・森可成・佐久間信盛・前田利家・丹羽長秀・織田信房ら700に対して、織田信行は柴田勝家1000、林秀貞700の合計1700で戦力は倍以上でした。
当然のように、織田信長らは苦戦を強いられ、柴田勝家が信長の本陣に迫った際には、織田勝左衛門・織田信房・森可成ら40人ばかりでの防戦となりました。
しかし、織田信長が大声で怒鳴ると、柴田勢は恐れて退却して行ったと言います。
そこで反撃に出た織田信長らは、鎌田助丞・富野左京進・山口又次郎・橋本十蔵・角田新五・大脇虎蔵・神戸平四郎などを450名を打ち取り、逆転勝利を収めました。
織田信行らは末盛城・那古野城に篭城しましたが、織田信長は城下を焼き払っています。
織田信行は、母・土田御前の計らいを受けて助命され、清洲城にて織田信長に詫びました。
林秀貞、柴田勝家、津々木蔵人も織田信長に謝罪すると許されて、以後、忠誠を誓っています。
なお、土田御前は、末森城に住んでいたようです。
ただし、織田信行は再び反旗を翻し、1557年11月2日、清洲城にて病気になっていると誘いだした織田信長の策略によって、北櫓・天主次の間で、織田信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺されました。
その後、末森城は城主不在となって放置されたようで、使われなくなった模様です。
しかし、三日月堀、丸馬出し跡があるなど、後年に改修された可能性もあり、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」にて、織田信雄が修復利用していたともされます。
末森城は、現在本丸一帯が城山八幡宮の境内となり、二の丸は愛知学院大学の敷地となっています。
織田信秀が関係した城で、まともに残っているのは末盛城くらいです。
幅12m~20mくらいの外堀があり、山の中腹にある本丸と、二ノ丸を取り囲む様に、内堀も配置されていたのが伺えます。
城山八幡宮の境内に末森城址の石碑が建っており、城名は末盛通として残っています。
交通アクセス
交通アクセスですが、名古屋市営地下鉄東山線の覚王山駅から徒歩5分と近くて便利です。
駐車場ですが、城山八幡宮の駐車場が山頂付近にあり、1時間は無料で利用可能でした。
駐車場への行き方はちょっとわかりにくいため、当方のオリジナル尾張マップにてご確認願えますと幸いです。
県道30号から左折で入ってください。
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