鞆城とは
鞆城(ともじょう)は、備後国の鞆(広島県福山市鞆町)にある平山城で標高24m、比高22mとなります。
瀬戸内海は、干潮と満潮で潮の流れが代わりますがその真ん中に位置するのが「鞆の浦」(とものうら)という事で、瀬戸内海を行き来する船は、必ずと言ってよいほど、鞆に寄港し、潮目が変わるのを待ちました。
昔になればなるほど、陸上は道が整備されておらず、長距離移動は、海上交通となりますので、鞆の街としては、古代より栄えていたと考えられます。
足利尊氏がまだ、室町幕府を開く前の話ですが、鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇の建武の新政に協力するも反旗を翻し、新田義貞らに敗れた足利尊氏は一時、九州に逃れます。
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そして、1336年、宗像大社を参拝した後、筑前・多々良浜の戦いにて、天皇方の菊池武敏らを破り、京に上る途中、30万を率いた足利尊氏は鞆の浦(とものうら)に寄りました。
この時、光厳天皇から新田義貞追討の院宣を、鞆の浦で受けました。※諸説あり
そして、大義名分を得た足利尊氏は軍勢を二手に分け、自らは水軍7500隻を率い、足利直義の軍勢20万人は山陽道を進みました。
湊川の戦いでは新田義貞・楠木正成の軍を破り、京を制圧し、後醍醐天皇を追い詰めて建武式目を制定し、室町幕府を開きました。
このように、足利家にとって、鞆の浦は転機となる縁起の良い場所となりました。
南北朝時代には、鞆合戦と呼ばれる戦もあり、静観寺・五重塔などが焼失しています。
近年発見された史料によると、戦国時代の1553年頃に毛利元就の命により乗山城の領主・渡辺氏が丘陵に「鞆要害」を築いたとあります。
そもそも海上交通の要所であったことから、当然、軍事的にも、敵に奪われるとやっかいな場所であったため、南北朝時代までには、大可島城がありました。
大可島城は現在の円通寺がある場所となります。
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そして、戦国時代に入ると1553年頃に、毛利元就の命により渡辺氏(名前不明)が築いたのが、市街中心部の丘陵にある「鞆要害」となります。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、渡辺民部と言う名前で呼ばれていました。
織田信長によって将軍になった足利義昭でしたが、1573年、槙島城の戦いに敗れて、追放されます。
このとき、足利義昭は毛利輝元を頼って、1576年に鞆に移りました。
鞆の浦は、足利家にとって、由緒ある吉兆の地だったからですね。
鞆幕府とも呼ばれ、鞆には足利氏の近臣である伊勢氏・上野氏・大館氏など、多数の名門武家が集まったため「鞆幕府」と称されました。
下記は、毛利家にゆかりのある早毛利稲荷神社でして、鞆城内にあります。
そして、この鞆から武田勝頼や上杉謙信などに、織田信長をみんなでやっつけようと書状を出したのです。
大可島城主・村上亮康が実質的な護衛をしたようです。
ちなみに足利氏は「鞆で興り鞆で滅ぶ」と言われております。
1578年、尼子再興軍の尼子勝久・尼子氏久が切腹し、山中鹿之助が毛利家に捕まります。
護送中に山中鹿之助は、備中・松山城近くにある高梁川と成羽川の合流点「阿井の渡し」で殺害され、備中松山城にいた毛利輝元は首実検をしています。
その後、鞆幕府の足利義昭も首実検したと伝わっており、山中鹿之助の首は最終的に鞆に埋葬されました。
現在の静観寺に、山中鹿之助の首塚があります。
そして、足利義昭がまだ鞆に滞在中である天正10年(1582年)6月2日に、明智光秀による本能寺の変で、織田信長・織田信忠が討たれました。
その後、豊臣秀吉により、足利義昭は宇治の槇島城主として1万石にて復活しています。
1600年、関ヶ原の戦いとなったあと後、広島城に福島正則が入ると、支城として鞆城を更に改修しました。
鞆城主には大崎玄蕃が就任しています。
鞆城は丘陵部の本丸を中心に、二の丸、三の丸で囲み、城域としては、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで大規模なものだったとされます。
また、本丸には3層3階の天守も建造されたと言い、慶長14年(1609年)になっても工事が行われていました。
鞆城の石垣は、いたるところに刻印があるそうですが、これは広島城や亀居城にも同様の刻印が見られると言います。
特に、朝鮮通信使が1607年に寄港した際には「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しています。
亀居城同様に福島家は幕府から目を付けられ、謀反の嫌疑が掛かったため、鞆城も廃城となりました。
その後、福山城に水野勝成が入ると、嫡子・水野勝俊の居所(奉行所)が鞆城の三の丸に置かれています。
この水野勝重(水野勝俊)が福山藩主を継いだあとには、鞆奉行所として重臣・荻野重富(荻野新左衛門重富)が在番しています。
現在、鞆城跡には「鞆の浦歴史民俗資料館」があるほか、宮城道雄の像、毛利家にゆかりのある早毛利稲荷神社の社が鎮座しています。
資料館の建物の南西側には、本丸石垣の一部が保存展示されており、石には丸印などの刻印が見受けられます。
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鞆の浦の街はとても古いままで、幹線道路も相互通行が困難なほど、とても狭いです。
すぐ近くにクルマを止めるのは困難ですので、有料駐車場に止めてから歩いて見学しましょう。
街全部を見学しますと、所要時間は3時間前後必要です。
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7,500席!?の船➞7,500隻の船ではないでしょうか?
しわくえつこさま、誤字・脱字のご指摘助かります。
修正させて頂きました。
ありがとうございます。