信濃・田口城(たぐち-じょう)は標高881mの山城で、比高は150mとなります。
吉沢川と雨川に挟まれた山の頂部にあります。
なお、山上には多数の郭が配置されている巨大な山城で、田ノ口城とも呼ばれます。
最初の築城は田口氏とも言われますが、その田口氏すら、詳しいことはわかっていません。
大塔物語では、田口氏の記述があるようです。
諏訪御符礼之古書では、1460年に「左頭、田口民部少輔長秘、御符之礼五貫八百文」とあり、1467年には「加頭下増、田口長経、御符礼一貫八百文末代まで如此可出由目安上候、頭役拾貫」との記載も見受けられます。
また、1482年には「明年御射山加頭田口民部少輔長綱」ともあり、上宮寺の梵鐘には「1543年11月、旦那田口左近将監長能」の刻銘もあるそうです。
そして、天文年間(1532年~1555年)に武田晴信(武田信玄)が佐久へ侵攻した際に田口城は陥落しました。
その後、天文17年(1548年)に、武田信玄が上田原の戦いにて、板垣信方、甘利虎泰、初鹿野伝右衛門らが討死し、村上義清に敗れます。
このとき、佐久では動揺が広がり内山城は放火され、その隙きをついて田口長能(たぐち-ながよし)が田口城を奪還しました。
しかし、塩尻峠の戦いで小笠原長時に勝利した武田信玄は、小山田信有(小山田出羽守)を派遣して田口城を攻撃し、田口長能(田口左近将監長能)を討ち取りました。
その後、武田家に臣従していた相木能登守(依田能登守)が田口城主となりました。
武田家が滅亡して、織田信長が本能寺の変にて倒れると、徳川家康に鞍替えしていた依田信蕃が田口城を攻略したため、相木氏は北条氏直を頼って落ち延びています。
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田口城への登城ですが、北側の林道清川線にてクルマで登っていくと、本丸付近まで入れるようですが、場合によっては倒木などで途中から通行が不可能である場合もあるようです。
山上の駐車場の近くには龍岡城の五稜郭がわかるように展望台もあると言いますが、林道は大丈夫なときもあれば、キケンなときもあったりしますので、自己責任でお願い申し上げます。
麓の依田氏の居館の跡にある蕃松院には、岩尾城の戦いで討死した依田玄蕃の墓と伝えられる墓石があります。
蕃松院は依田信蕃の子である松平康国が建てました。
その蕃松院から、ちょっと東側の集落から徒歩で登れる登城路もあります。
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