聖通寺城(しょうつうじじょう)は、香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山にある、善通寺山にある山城で標高122m、比高120mと、瀬戸内海を望める立地となっています。
岡山県から瀬戸中央自動車道の瀬戸大橋にて四国に入ると、前方に見えて来る山が聖通寺城となります。
宇多津城と言う別名で呼ばれることも多く、宇多津を納めた奈良太郎左衛門元安(奈良元安)が、応仁年間ごろ(1467年~1469年)に築城したとされています。
この奈良氏の出自は、成田氏流ともされる武蔵国大里郡奈良と言う事ですが、応仁の乱となると奈良元政が細川勝元に属し、1362年の高屋の戦いにて戦功を挙げたため、この讃岐の鵜足郡と那珂郡の2郡が与えられました。
奈良元政は、香川元明・香西元資・安富盛長とともに「細川京兆家の四天王」と称されます。
そして、宇多津城を本拠としたようですが、西の麓に聖通寺があることから、聖通寺山宇多津城とも呼びます。
また。宇多津では、塩飽水軍を支配下に収めていたようです。
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1582年、織田信長が本能寺の変で殺害されると、土佐を統一した長宗我部元親は、1万2000の軍勢にて聖通寺城を攻めています。
勢力が衰え、2村程度の領地となっていた奈良元政(奈良太郎左衛門元安)は、戦うことなく聖通寺城を捨て250の兵を引き連れて阿波に入り、勝瑞城の十河存保を頼りました。
その後、1582年8月28日、中富川の戦いで、十河存保らと長曾我部軍を迎え撃ちますが、奈良元政は討死したとされます。
豊臣秀吉の四国攻めて、長宗我部元親が降伏して土佐一国におさまると、讃岐は仙石秀久に与えられました。
この時、仙石秀久は、高松城を本拠にしたと考えられていますが、聖通寺城に入った可能性も捨てきれません。
戸次川の戦いで、仙石秀久が失脚すると、1595年(文禄4年)に生駒親正が17万石で讃岐に入りました。
生駒親正は最初、引田城を拠点としていますが、程なく聖通寺城に本拠を移しています。
しかし、1588年(天正16年)に高松城を築くと、本拠としたため、以後、聖通寺城は歴史に登場していないようです。
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宇多津城は、結婚式場(無料展望台あり)がある北郭と、本丸と推定される中郭、そして南郭の3つのピークからなります。
山頂付近は「常盤公園」になっていて無料駐車場もありますが、城跡としての遺構はほとんど残されていません。
積石塚古墳は石を盛った珍しい古墳ですが、仙石秀久が石を投げたものと言う伝承もあります。
常盤公園駐車場(無料)が利用できます。
当方のオリジナルGoogleマップにてご確認を賜りますと幸いです。
歩きですと、JR予讃線・宇多津駅駅から徒歩45分で、しかも山城ですので坂が待ってます。
常盤公園から瀬戸大橋を望む
聖通寺城(宇多津城)がある常盤公園には、駐車場からすぐ近くのところに「結婚式場」St.ANGELINA(サン・アンジェリーナ)があります。
標高117mの山頂付近でして、展望台の部分が無料開放されており、駐車場から歩いて1分で行けます。
下記のような絶景が迎えてくれます。
瀬戸内海の塩飽諸島も一望できる坂出の絶景ポイントです。
聖通寺城としての遺構は乏しいですので、この展望を見に行くような観光地と言えますが、昔は埋め立てされていなかったため、岬の先端のような状態だったと存じます。
そのため、城跡言うよりは、この展望を求めて訪れるのも良いです。
発電所でもあるのですかね?
大きな天然ガスタンカーも停泊していました。
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