箕輪城とは
箕輪城(みのわ)は、戦国時代の1512年(又は1526年)に長野尚業が築いた丘城とされますが、長野尚業は鷹留城を築いたので、その子、長野憲業が築いたとも伝わります。
長野氏は関東管領・山内上杉氏の重臣で、戦国時代の長野業政は関東管領・上杉憲政を支えました。
1541年には、武田信玄に海野平の戦いで敗れて、羽根尾城に逃れていた海野棟綱・真田幸隆らを一時、箕輪城内にて保護した事もあります。
1557年4月には、武田義信を総大将に、飫富虎昌、山県昌景、内藤昌豊、馬場信房、諸角昌清ら武田勢13000が箕輪城を攻撃しますが、損害が大きく退却。
その後、8月、10月にも武田勢は箕輪城を攻撃したが、箕輪城は落ちなかったようです。
1559年9月、武田信玄は自ら12000を率いて松井田城、安中城周辺の田畑を荒らして箕輪城を攻撃しましたが、長野業政は鉄砲を駆使して撃退しています。
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1561年、武田信玄は国峰城を攻略し松井田城も調略し、この頃、長野業正は没したとされ、14歳(17歳とも)の子・長野業盛が家督を継ぎました。
長野業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。
弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。
決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。
これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、その死は長く秘密にされましたが、その死を武田信玄は知ると再び攻略開始。
1563年、和田城主・和田業繁が武田家に寝返りますが、武田勢は倉賀野城を攻めたが落とせませんでした。
1564年、ついに松井田城と安中城が陥落し、1565年には倉賀野城も落城した為、箕輪城は孤立。
1566年、武田信玄は20000の大軍で侵攻て、那波無理之助宗安が高浜砦を急襲。箕輪城から安藤九郎左衛門勝通、青柳金王らが救援に向かい、高浜砦を奪還するも、武田勢の小宮山らが里見城・雉郷城を陥とした為、箕輪城と鷹留城の連絡が分断されます。
鷹留城主・長野業通は数百の手勢で善戦したが鷹留城は落城し、長野業通らは吾妻に逃亡。
9月28日、若田ヶ原の戦いで激戦となり、長野勢は武田勢に押されて1500にて箕輪城に籠城しました。
箕輪城を包囲した武田勢は9月29日払暁より新曲輪から箕輪城を攻めた。鉄砲などで武田勢は600を失いますが、城主・長野業盛が城門から討って出るなど奮戦したが敵わず、御前曲輪の持仏道で自刃し、箕輪城は落城しました。
箕輪城には甘利昌忠、真田幸隆、浅利信種が次々と城主となったが、1570年頃には内藤昌豊が城主となっています。
しかし、1575年の長篠の戦いで討死。子・内藤大和守昌武(内藤昌武、内藤昌月)が箕輪城主となりました。
1582年、武田勝頼が天目山の戦いで敗れて滅亡する前の2月28日に、北条家の北条氏邦が進駐して箕輪城を占拠。
しかし、滝川一益が北条氏邦を追い払い箕輪城に入城するも、手狭だった為厩橋城(前橋城)を本拠としました。
そんなのも束の間、6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死すると、北条家は勢力拡大に出て、6月19日、神流川の戦いで滝川一益が敗れて逃亡すると、再び北条氏直・北条氏邦が箕輪城を占拠。
旧城主・内藤昌武は北条氏邦に従いました。
1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの際、箕輪城は垪和氏・保科氏が守備していましたが、前田利家・上杉景勝らの北国軍の前に4月24日、戦わずして降伏し開城となっています。
徳川家康が関東に入封すると、井伊直政が12万石で箕輪城主となり近代城郭に改造し水濠をつくり、城下町を整備します。
しかし、1598年、和田宿に築城・移転した為、廃城となりました。
和田宿はその後「高崎」と改名しています。
箕輪城は国の史跡で、日本100名城にも選ばれている、地形を巧みに利用した、規模の大きな平山城です。
「大堀切」 は圧巻で堀の深さが、かなりありましたが、昔はもっと深かったそうです。
交通アクセス
国の史跡で日本100名城にも選出されている、箕輪城へのアクセス・行き方ですが、東側の「搦め手」から細い道を上がっていくと、二の丸が無料駐車場の場所です。
下記の地図ポイント地点となります。
現在、二の丸にはバイオ・トイレも設置されています。
2016年には、その二の丸へ上がっていく付近に大きな無料駐車場も完成しました。
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