都之城(みやこの-じょう)は、宮崎県都城市都島町にある標高159m、比高20mの山城で、別名を鶴丸城と言います。
島津忠宗(しまづ-ただむね)の7人の子は、それぞれ分家したのですが、6男である島津資忠が、南北朝時代に北朝方として活躍したことから、足利尊氏より薩摩の迫一帯(宮崎県都城市山田町)を与えられ、郷名を取って北郷氏(ほんごう)を称しました。
こうして、北郷資忠(ほんごう-すけただ)と改名した訳ですが、その子・北郷義久(ほんごう-よしひさ)が、1375年に薩摩迫から都之城に移り住み、現在の宮崎県都城市の礎を築きます
このとき、山城である都之城が築城されたと考えられています。
しかし、北原氏、伊東氏、新納氏、肝付氏といった周辺の勢力に次第に押されます。
戦国時代初期にもなると、都城島津氏(北郷氏)の北郷氏8代当主・北郷忠相(ほんごう-ただすけ)のときには、山田城も北原氏に奪われます。
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そして、1522年4月、伊東尹祐10000の猛攻に辛うじて、都之城と安永城の2城を兵800にて、なんとか保っていた状態でした。
更に1523年に、伊東尹祐は飫肥城主・北原久兼と同盟して、北郷氏の支城・野々美谷城を攻撃して北郷尚久が討死し陥落しますが、その陣中で伊東尹祐が急死します。
伊東尹祐の急死により、跡を継いだ伊東祐充に対して、野々美谷城の伊東家への受け渡しと、北郷忠相の娘を正室として輿入れせ、和議を成立させると、山田城を奪還し、本田親尚や志布志城の新納忠勝を攻めて領土を拡大して行きました。
また、島津宗家の豊州家・島津忠朝とも同盟して、1532年に、北郷忠相は北原久兼と連合し、伊東氏領の三俣院高城を19000の大軍で攻めた不動寺馬場の戦いなどに勝利して周辺勢力を討ちます。
1533年1月には野々美谷城を落とし、現在の都城市・三股町・山之口町など都城盆地周辺一帯を手中に治めました。
北原氏11代当主・北原久兼は高城を守る伊東家の落合兼佳を説得して開城させ伊東家の支城は、抵抗をあきらめ佐土原城・都於郡城へと撤退していきました。
そして、庄内十二外城と呼ばれる、月山日和城(高城)、志和池城、財部城(龍虎城)、安永城、山田城、梅北城、野々美谷城、山之口城、末吉城、恒吉城(日輪城)、梶山城、勝岡城といった支城群を整備した模様です。
また、北郷忠相は本拠を三俣院高城(月山日和城)に移し、都之城には子の北郷忠親を置きました。
1541年6月16日、北原久兼が伊東義祐の援軍を得て、北郷忠相を攻めて日和城近くにて「諏訪馬場の戦い」となりますが撃退しています。
更には、1542年8月にも、大楽(だいらく)にて北原氏・伊東氏と戦いとなりましたが、都之城から子の北郷忠親が挟撃し、北原家臣の白坂下総守や澁谷兵庫など700名を討ち取る大勝利を納めています。
また、山田城には北郷忠茂を入れました。
1546年、豊州家・島津忠広の養子・島津賀久が夭逝して跡取りがなくなると、北郷氏の後継には都之城主・北郷忠親の長男・北郷時久を充てて、北郷忠親は自らは豊州家に養子となって入り、島津忠親(しまづ-ただちか)と改名しました。
1559年に名将として名高い、月山日和城(三俣院高城)の北郷忠相が77歳で没します。
島津忠親は、日向の最大勢力となった伊東義祐の猛攻を凌ぐため、永禄3年(1560年)、島津宗家15代当主・島津貴久の次男で、猛将として誉れ高い島津義弘を養子に迎えて飫肥城の守備を任せてます。
都之城主となっていた北郷時久(ほんごう-ときひさ)は、島津宗家と手を結び、肝付氏や伊東氏から都之城を守り抜きました。
そのため、1562年、島津貴久から末吉・梅北の所領を与えられ、都城盆地は完全に北郷氏の支配となりました。
1571年、島津貴久と北郷忠親らが死去すると、肝付氏が兵をあげ、チャンスと伊東義祐が侵攻し、島津義弘と木崎原の戦いとなり、伊東家は大敗を喫して衰退して行きました。
豊臣秀吉の九州攻めの際に、北郷時久・北郷忠虎も島津勢として参じますが、根白坂の戦いで敗れて島津家が降伏します。
しかし、北郷時久は都之城に籠城して最後まで抵抗を示しましたが、豊臣秀吉は子の北郷忠虎に書状を送って降伏を勧めたため、石田三成と伊集院忠棟を通じて豊臣秀吉に謝罪し、人質を差し出すと所領安堵となっています。
朝鮮攻めの際には、北郷忠虎も都城の兵を率いて出陣しましたが、現地で死去します。
そして、1595年、北郷氏に代わり日向諸県郡庄内の地8万石は、伊集院忠棟が知行することになり、北郷時久は先祖代々の都之城6万9千石から減らされて、祁答院3万7000石となりました。
ところが、都之城の歴史はまだ終わりません。
1599年、伏見の島津邸にて島津忠恒が伊集院忠棟を斬殺したことから、子の伊集院忠真は都之城を本城とし、恒吉城、梅北城、志和池城、梶山城、勝岡城、山之口城、月山日向城、安永城、野々美谷城、末吉城、山田城、財部城の12箇所の外城にて防備を固めます。
こうして都之城は「庄内の乱」しょうないのらん)の本拠地となり、島津忠恒は山田城を攻略していますが、平佐北郷氏・北郷三久も貢献しています。
そして、徳川家康が仲介して伊集院忠真は降伏し、都之城には北郷忠能(北郷忠虎の子)が4万1300石で復帰し、乱は終結しました。
こうして、都城家は幕末まで続きましたが、関が原の戦いの際、国元が不安定だった島津家は、1000名しか京に派遣できなかった訳です。
明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、都城地域からは1550名が西郷隆盛の薩軍に参加しました。
本丸跡には林野庁の補助事業で木造の城郭風建物「都城歴史資料館」が設けられています。
なお、本丸を守るように西の城、南の城、中の城、池の上城、中尾城などがありましたが、南側はJR九州・日豊本線の線路で分断されています。
残る遺構としては、櫓台、土塁、腰曲輪、門跡、虎口があります。
西之城跡には神武天皇を祀る狭野神社(さのじんじゃ)があります。
城山大手門は総工費9500万円ですが、ここまで立派な石垣の上には無かったのではと存じます。
でも、こりような建物があるだけで、ぐんとお城らしくなるので、歓迎するところです。
交通アクセスですが、JR・日豊本線の都城駅からバスで岳之下バス停下車となります。
駐車場は都城歴史資料館の無料駐車場が利用でき、当方のオリジナル地図でも場所がわかるようにしてあります。
ただし、朝8時30分からでないと止められません。
有料の資料館は午前9時30分からで月曜日は定休となります。
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