宮崎県

野々美谷城~伊東尹祐が野々美谷城の戦いにて陣中で没する

野々美谷城

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日向・野々美谷城(ののみだにじょう)は、宮崎県都城市野々美谷町にある山城で標高は155m、比高はあまりなく20mとなります。

大淀川を見下ろす台地の端にあり、東側を大淀川、北側を庄内川と、川が天然の堀の役割を果たしています。
江戸時代の記録では、諏訪城・西の丸・八幡城・石垣城・倉持城・尾崎城・平城・取添2城など、12の曲輪があったとあるようです。
ただし、現在は開発されており、5つの曲輪が残るのみと言うことです。

恐らくは古くから城として機能していたと推測します。

1394年に、人吉城主の相良前頼が九州探題・今川了俊の4男・尾崎貞兼、伊東氏・土持氏・北原氏らと、北郷氏の一族が守っていた野々美谷城を攻め落とします。
更には梶山城を攻めますが、都之城から救援として北郷久秀・北郷忠通・北郷知久が駆けつけますが梶山城は陥落し、北郷久秀と北郷忠通が討ち死にしました。

怒った島津元久は北郷義久との連合にて反撃し、樺山城の戦いにて今川勢を破ります。
尾崎貞兼は飫肥城まで逃れ、相良前頼は野々美谷城に逃げ込みました。
そのため、北郷義久らは、そのまま野々美谷城を夜襲し、相良前頼と弟・丸目頼書、丸野頼成、青井前成らを討ち取りました。


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これにより、島津一族による庄内の支配が確定しています。
北郷義久は、弟の樺山音久を野々美谷城に入れ、野々美谷城は、樺山氏(かばやまし)が代々城主を務めました。

戦国時代となって、7代・樺山広久のとき、1521年に島津忠兼によって領地替えがあり、樺山氏は堅利55町・小浜24町、臼崎・持松を新しく与えられました。
そして、都之城主・北郷忠相の所領となったため、一族の北郷尚久が野々美谷城主として入っています。

ところが、1522年4月、伊東祐梁が10000にて都城に押し寄せます。
北郷忠相はうまく防ぐものの、その間に、日向・山田城を北原氏に奪われましたが、翌年4月、北郷忠相は北原氏の支配下となっていた山田城を奪還しています。

ほどなく11月には、伊東尹祐と伊東祐武が北原久兼と連合して、野々美谷城の戦いとなりました。

野々美谷城

このとき、北郷尚久は奮戦しますが流矢にあたって討ち死にし、野々美谷城は陥落しました。
ところが、伊東尹祐が、その陣中にて没します。
さらに弟の伊東祐梁も1ヶ月後に急死するという事態となり、伊東勢は撤退しています。

その後、伊東祐充が伊東家を継ぐと、北郷忠相は伊東祐充に野々美谷城を割譲し、娘を嫁がせて姻戚関係を結び、和睦します。
また、北原久兼とも和平を結んで、山田城を北原氏に返還しました。

島津宗家・島津義久によって伊東家は滅亡しますが、1587年、豊臣秀吉の九州統一のあと、石田三成らと親しくなった伊集院忠棟が、1595年から都之城主となったため、野々美谷城も庄内十二外城のひとつとなっています。

1599年、家督相続の確執から伊集院忠棟が誅されると、子の伊集院忠真は「庄内の乱」と呼ばれる叛乱を起こします。
このとき、野々美谷城には有田屋大炊左衛門、古垣大炊介忠時、古垣与兵衛尉忠興らが籠城しますが、志和地城が降伏すると、野々美谷城も開場したようです。

この乱の後、庄内は北郷氏に戻され、野々美谷城も再び北郷氏が所有するところとなり、江戸時代、1615年の一国一城令で廃城となります。

現在、諏訪神社がある曲輪が諏訪城ですが、遺構がよく残っているのは、平城と八幡城との事です。

南国には珍しい、雪混じりの雨が本降りであったため、遠景の撮影だけにとどめました。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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