宮崎県

新納院高城(日向・高城)~大友と豊臣の大軍に2度包囲されても落ちなかった頑城

新納院高城(日向・高城)

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新納院高城(日向・高城)

日向・高城(たかじょう)は、宮崎県児湯郡木城町にある標高60m、比高は50mの山城で高城城、新納院・高城とも書きます。
日向三高城(新納院高城、穆佐院・高城月山日和城)にも数えられ、伊東氏48城のひとつでもありました。

高城は、三方が急な崖なのですが、唯一西からは丘陵で続いているため、空堀を7重にも巡らして遮断し、防衛強化しています。
下記は第1堀切跡です。

高城の堀切

そのため、大友宗麟豊臣秀吉の軍勢でも落とすことができなかったのが、高城ということになりますが、現在は城山公園として整備されており、本丸を中心に腰曲輪が残されています。

最初の築城は不明ですが、701年には既に土塁が築かれていたと言う文献もあるようです。


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南北朝時代の1335年に、島津忠宗の4男・島津時久が、足利尊氏からの恩賞として日向児湯郡新納院の地頭に任じられ、高城に入ると新納時久(にいろ-ときひさ)と称します。
ちなみに、1350年には、京にいて留守の間に日向守護・畠山直顕から高城は攻撃されて陥落したため、別の領地であった日向救仁院(志布志)を本拠としており、新納時久の墓は、志布志城跡の矢倉場にあるとされます。

1357年12月には、一色範親の命により土持貞綱が新納院の地頭職となり、高城は新納院土持氏の城となります。

新納院高城(日向・高城)

高鍋城(財部城)の記事でも触れていますが、都於郡城主・伊東祐堯が、伊東家が室町幕府より日向平定の下知状を貰おうとし、これに反発した土持氏と争いました。
1456年に、財部土持氏の土持影綱と県土持氏の土持宣綱は連合して伊東祐堯と、財部城から近い毛作原にて小浪川の戦いとなり、激突します。
激戦となったこの合戦で、土持勢は多数の兵を失い、有力武将の土持三河守金綱は討死しています。

新納院高城

翌1457年、伊東勢は新納院土持氏の財部城を包囲すると総攻撃を仕掛け、ついに財部・土持惟綱(土持是綱)は伊東家に降伏し、約600年続いた財部・土持氏は没落しました。

こうして、高城も伊東家の城となり、野村蔵人が高城主となり、伊東氏四十八城の一つに数えられました。

日向・高城

1572年、伊東義祐木崎原の戦いで島津勢に大敗し、さらには1577年に島津の圧迫を受けると家臣らが次々に離反し、佐土原城を捨てた伊東義祐は大友宗麟を頼って豊後に落ち延びます。(伊東崩れ)
そして、日向は島津家の支配下となり、高城には島津義久の家老・山田有信が新納院高城に入城しました。

新納院高城

豊後に逃れた伊東義祐は、大友宗麟に日向への出兵を促し、いよいよ6万ともいう大軍が、南下を始め「耳川の戦い」(高城の戦い、高城川の戦い、高城川原の戦い)となります。

高城の城下

その時、大友勢の田原親賢は高城を包囲しますが、山田有信は僅か300の兵で3ヶ月籠城していました。
そこに、援軍として島津家久・吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞ら3000が大友勢を足止めして、耳川の戦いとなりますが、島津勢は釣り野伏せの戦法にて大勝利を納めます。

新納院高城(日向・高城)

耳川の戦いは、島津義久の記事にて詳しく記載していますので、ここではこれ以上は省きますが、高城はまた大軍に包囲されるようになります。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州攻めの際に、毛利輝元小早川隆景吉川元春黒田長政蜂須賀家政藤堂高虎、加藤嘉銘、脇坂安治、宇喜田秀家、大友義統と言った20万を率いた羽柴秀長の大軍が、高城を総攻撃します。
この時も、山田有信はわずかに1500の兵にて籠城し耐えましたが、援軍に駆け付けた島津義久は、すぐ近くの根白坂の戦いにて羽柴秀長に敗れて、あえなく撤退します。

そのあと、島津義久は羽柴秀長に降伏しますが、それでもなお高城は籠城して降伏勧告をはねつけていたため、島津義久が説得して、山田有信(山田新介有信)も子の山田有栄(山田昌巌)を人質に出して1587年4月29日に高城を退去しました。
そして、鳥取城主の宮部継潤が高城に入って受け取っています。

下記は高城の本丸にある耳川合戦などの供養観音です。

供養観音

ちなみに、山田有栄(山田昌巌)は、1600年の関が原の戦いの際には、島津義弘に従って右翼を任されてました。
中央突破して薩摩へと敗走する際には、途中で食べ物をくれた村人らに支払う路銀も無くなったとき、支払いなんか不要だと言う意見も多かった中、山田有栄は自らの刀の金象嵌の鞘を村人に渡して感謝したと伝わります。
その後、薩摩藩では2020石にて家老となり、出水を領しました。

なお、九州討伐のあと、新納・福嶋・諸県3万石は秋月種実に与えられ、高城は支城となり、元和元年(1615年)の一国一城令にて廃城となっています。


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高城の近くには、根白坂の戦い耳川の戦い(高城川合戦)古戦場跡、竹鳩ヶ淵跡(下記写真)、戦死者を弔った宗麟原供養塔(国指定史跡)などがあり、史跡としての見どころは多いところです。

竹鳩ヶ淵跡

交通アクセス

高城への交通アクセスですが、クルマの場合、西側の台地から車道があり本丸近くに無料駐車場がありますので、訪問はとても便利です。
見学所要時間は20分といったところです。

2度も大勢の敵が押し寄せても落ちなかった高城ですが、落ちないと言うことで、受験生は合格祈願として訪問必須とも言えるのではないでしょうか?

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伊東義祐~日向から南九州の覇権を争うも伊東崩れで没落
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佐土原城~伊東家の本拠としても栄華を誇り天守もあった山城
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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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