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武蔵・村山城とは
武蔵・村山城(むらやま-じょう)は東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷にある丘城。
別名は武蔵・村山館、村山氏館、殿垣内とも言うようで、現在は福正寺がある。
実際に普段生活した屋敷は、福正寺の東にある谷戸にあったと推測され「殿が谷」と言う地名が残っている次第だ。
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新編武蔵国風土記稿によると、殿ヶ谷は領主・村山土佐守(村山土佐守義光)の居城で小田原城の北条氏に従っていたとある。
この村山氏は、平安時代末期の村山党と言う事だ。
平安時代末期に平忠常の孫(平基宗の子)・平頼任(たいら の よりとう)が狭山丘陵一帯を所領とすると村山貫主、村山頼任(むらやま よりとう)と呼ばれ村山党の始祖となった。
村山党からは金子家範、大井家綱、宮寺家平、山口家継、仙波家信、久米氏、大石氏、難波田高範などの一族を輩出している。
1180年、源頼朝が挙兵した際に、平家に従っていた畠山重忠・河越重頼・江戸重長らが三浦氏の本拠地・衣笠城を攻撃したが、その際に村山氏が金子家忠・金子親範を伴って平家側の武蔵国勢として参陣している。
村山党の本拠地は村山郷になるが、どこにあったのか?は定かでは無いようだ。
ただ、武蔵・村山城の東にある谷は、平安時代末期に武蔵・村山館があってもおかしくない雰囲気(地勢)であるが、現在は住宅地となっている。
戦国時代の村山義光(村山土佐守義光)は、関東管領・上杉氏の重臣になっていた同族の大石定重(高月城主)に従っていたようだ。
1546年、北条氏康が河越城の戦い(河越夜戦)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力が衰退すると、大石定久は北条氏康の3男・北条氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏が北条氏の傘下に入った。
そのため、村山氏も武蔵・滝山城の北条氏照に従ったと言う事になりそうだ。
1590年、北条氏が滅亡すると村山氏は帰農したと言うが、八王子城の戦いなどには参加しなかったのだろうか?
福正寺の一番高いところには、村山土佐守をはじめとする一族の墓と称する墓石群があるようだ。
近くの小さな公園内(玉林寺公園)に、村山土佐守の銅像が設置されている。
交通アクセス
武蔵・村山城への行き方だが、アプローチの道路は狭く、曲がるところも何箇所かあるためカーナビ設定しての訪問が必須。
駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
徒歩でも自転車でもナビとしても使えるのでご活用頂ければ幸いだ。
・金子十郎家忠館(武蔵・金子氏館)の解説~鎌倉時代に活躍した金子家忠の武勇
・滝山城の探訪記と写真集~登城所要約90分も見応えある城
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