川和城とは
川和城(かかわ-じょう)は、神奈川県横浜市都筑区川和町にある平山城。
別名は、川和城塁、川和城山とも言う。
古くは鎌倉街道・中ノ道が通っており、鶴見川の水運と言い、交通の要所でもあった。
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かつては土塁などが残されていたようだが、昭和に入ると川和城跡の丘陵は採土のために削られて、川和団地などが建てられており、遺構などは残っていない。
近くには、池辺城なる城跡もあったようだが、場所は定かではない。
月出松公園の付近か?
高いところに登ると、鶴見川方面の見晴らしも良く、富士山も望めた。
近くにある妙蓮寺(みょうれんじ)は、1334年に朗慶上人が川和城跡の麓に草庵を結んだのが始まり。
朗慶上人(阿闍梨朗慶)は、1366年に没した。
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長禄年間(1457年~1461年)には、谷中・感応寺の日耀が妙蓮寺を再興したとされる。
その後、戦国時代の1530年に、現在地に移転して城根山・妙蓮寺と号した。
熊井太郎
なお、川和・妙蓮寺の墓地の上部にある木々が茂っている箇所に「熊井太郎忠基壘蹟」と言う石碑が建っている。
なんでも、熊井太郎忠基なる者が住んでいたと言う事になっている。
この熊井太郎忠基(熊井忠基、熊井太郎)は、平安時代末期に源平合戦を戦った源義経の郎党の人物となる。
熊井太郎は、源義経の奥州落ちにも従っている。
熊井太郎忠基壘蹟がある場所はわかりにくい。
墓地の右奥の高いところ、下記写真の階段を上がったところにあるので、目印として添付しておく。
ので、当方のオリジナル地図にてポイントもしている。
この石碑によると、熊井太郎(熊井忠基)の屋敷がこの付近にあったと言う話らしいが、詳しいことは不明。
ただ、荒武者・熊井忠基(くまい-もとただ)の伝承地としては同じ武蔵国でも比企郡鳩山村熊井の方がよく知られている。
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戦国時代には、中田加賀守屋敷と言う城名の主・中田加賀守の所領だったようだ。
小机城の支城として多少の砦機能は果たしていたものと推測される。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、中田加賀守は討死したとされる。
明治時代には都筑郡役所が置かれるなど、川和は都筑の中心地であったことがわかる。
交通アクセス
川和城跡への行き方ですが、横浜市営地下鉄グリーンラインの川和町駅から徒歩10分。
妙蓮寺の参拝者用駐車場を拝借できる。
駐車場の場所だが当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。
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