山梨県

甲斐・中野城と雨鳴城~標高1000m以上の難攻不落な山城

甲斐・中野城

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甲斐・中野城とは

甲斐・中野城は山梨県南巨摩郡富士川町にある山城
同じ尾根上にある雨鳴城と共にご紹介することお許し願いたい。
甲斐・中野城は、戦国シュミレーションゲーム「信長の野望」シリーズにて、甲斐で防御力が低い躑躅ヶ崎館を支えるような強力な城であり、ずっと興味を抱いていた。
しかし、よくよく調べてみると結構な山城であることがわかる。

甲斐・中野城

なにしろ標高は1020mとかなりの高所であり、麓との比高は400mを超える。
もし、麓から登城するとなると、1日がかりの山城だが、中野城のことを雨鳴城と呼ぶこともあったようなので、一緒に掲載させて頂く。

甲斐・中野城の最初の築城は、甲斐国志によると新羅種久(新羅五郎種久)とも伝わるが、この人物に関しては不詳。
武田氏の初代である武田信義は、新羅義光(新羅三郎義光、源義光)の孫のため関連性は考えられる。


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なお、武田信義の弟・加賀美遠光は加々美荘に入って加賀美氏館に住んだ。
その甲斐源氏流加賀美氏からは秋山光朝、小笠原長清南部光行、加賀美光経、於曽光俊(於曽経行)と、子らが分家する訳だが加賀美遠光の長男・秋山光朝(あきやま みつとも)は大井荘に進出すると秋山に居館を構え秋山氏を称した。

雨鳴城とは

平安時代末期、小笠原長清と共に京都では平知盛に仕えており、秋山光朝は平清盛の嫡男である平重盛の娘を正室に迎えている。
源頼朝平氏討伐において、秋山光朝は源義経に従い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと活躍した。
しかし、1185年、秋山光朝は鎌倉勢に攻撃され詰め城である雨鳴城にて自害したとも伝わる。
すなわち、雨鳴城(あまなりじょう)を築いたのは秋山氏館の秋山太郎光朝であると考えられるが、中野城のある城山から南東に張り出した支尾根(標高833m)にあるため中野城の支城ともされる。
また、中野城跡が自害の地であるとの伝承もある。
なお、甲斐源氏では武田信義、安田義定鎌倉殿・源頼朝から排除されている。


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その後、戦国時代に甲斐・中野城が登場することもなく、城址には水場も無いようなので、実際には籠城に向かない緊急避難的な詰城だったのかも知れない。

交通アクセス

甲斐・中野城への行き方ですがクルマの場合、中野城の西側にある桜池の駐車場・トイレが利用可能。
その道路を北に歩くとカーブのところに登城口があり、ここからだと比高140mほどで済み徒歩30分ほど。
ちなみに、桜池から雨鳴城までは下りとなり、徒歩約10分程度と近い。
当然だが熊出没注意。

桜池の駐車場がある場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂ける。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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