天野氏館とは
天野氏館(あまのし-やかた)は、山口県岩国市周東町上久原にある平城(館跡)です。
現在、グランドのようになっている久田児童公園が、天野氏館跡付近とされ、西には中山川が流れています。
最初の築城としては、戦国時代後期の慶長年間(1596年〜1615年)に、毛利家の家臣・天野元嘉が築いたとされます。
天野元嘉(あまの もとよし)は、安芸・金明山城の城主である天野隆重の5男で、1562年に生まれました。
父・天野隆重は、毛利元就に従い、月山富田城の城代も務めた、有能な武将です。
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兄・天野元明は、1578年、上月城の戦いにも参じており、山中幸盛(山中鹿之助)の身柄を護送する際に、家人の河村新左衛門と福間彦右衛門に命じて殺害しています。
1580年、天野元嘉は、因幡・鳥取城の戦いに援軍として駆けつけています。
1584年に、父・天野隆重が死去すると、家督は天野元嘉が継いで、2730石と見られますが、所領は、兄・天野元明のほうが大きいです。
天野元嘉も期待されたようで、正室は、吉川広家の養女(今田忠久の娘)となります。
長男・天野兵衛入道浄心は、目が見えなかったようで、天野淨心の子・天野元重が、弟・天野元信の養子になったともされます。(諸説あるようです)
1590年、天野元嘉は、3283石にて、備後・大富山城に本拠を移しました。
豊臣秀吉の朝鮮攻めでは、渡海した長い在陣のすえ、帰還しています。
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恐らくは、毛利輝元が関ヶ原の戦いにて、長門国と周防国へ減封となったあと、岩国に移ってきたと考えてよいでしょう。
天野元嘉には、周防国玖珂郡の久原村、長野村、午王内村、中曽祢村、樋余地村に1500石が与えられ、久原村に居を構えたとあります。
その館跡が、天野氏館と言う事になりますが、遺構などは残されていません。
その後、天野元嘉は、慶長17年(1612年)12月20日に亡くなりました。享年51。
墓所は、近くの通化寺にあり、父・天野隆重夫妻の墓も一緒にあります。
ちなみに、天野氏の発祥は、伊豆国田方郡天野郷で、源頼朝の挙兵に最初から加わった天野遠景がいます。
その功績で、鎌倉幕府では鎮西奉行を務めたため、駿河国・相模国・三河国・尾張国・甲斐国・安芸国・能登国など、各所に領地があり、のち、天野一族が下向したことから、繋がっています。
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交通アクセス
天野氏館への交通アクセス・行き方ですが、JR岩徳線の周防高森駅から約1.6km、歩くと20分くらいの距離です。
場所がわかりにくいので、当方のオリジナル地図にてポイントしているのを、ご参照賜りますと幸いです。
このあとは、通化寺へ向かいました。
・周防・鞍掛山城の解説 杉隆泰「鞍掛城の戦い」(鞍掛合戦)
・蓮華山城の解説 椙杜隆康・椙杜元縁の本拠地
・月山富田城の解説【日本100名城】尼子経久・尼子晴久・尼子義久
・天野隆重の解説 天野元明
・天野遠景の解説~源頼朝から信頼された伊豆の鎌倉御家人
・山陽の観光や城跡巡りにも便利な地図
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