出雲・高瀬城 (たかせ-じょう) は、島根県出雲市斐川町神庭にある連郭式山城で、高瀬山に築かれていることから高瀬山城とも書きます。
城山は標高329m、比高200mと、険しい独立丘になっており、城郭は三の丸、二の丸、甲の丸(頂上)と自然地形を巧みに利用しているようです。
高瀬山の名の由来は「出雲国風土記」に見える女神になる、宇夜都弁命(うやつべのみこと)が、地元の「宇屋の里」から山に登ったところ、山の頂に清水が湧いていて「高清水」と呼び、いつか「高瀬」と言うふうに変化したとされています。
最初の築城は不明ですが、南北朝時代の暦応年中(1338年〜1341年)に、建部伊賀(建部内蔵伊賀)と言う武将が築いたとも、平氏が築いたとも伝わります。
戦国時代に入ると、月山富田城の尼子氏の重臣である、尼子十旗の米原綱広が出雲・高瀬城主となりました。
出雲の米原氏は、佐々木六角氏の一族で、14代当主・六角定頼の甥・六角治綱が、米原氏の養子となって近江国米原郷を領したのが始まりとされます。
その後、米原治綱が尼子経久に仕えて軍功を立て、家臣となりました。
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1532年、塩冶興久の乱に際には、米原綱広が、佐陀城に籠った尼子経久の3男・塩冶興久を、救出しようとしたと伝わります。
嫡子・米原綱寛(よねばら-つなひろ) は、主君・尼子晴久に寵愛され側近として活躍します。
尼子御手廻り衆となり、1万7500石を領し、1540年には、吉田郡山城の戦いにも参じました。
1560年、尼子晴久が急死すると、毛利元就の攻勢により、尼子義久は家中をまとめられず、尼子十旗の本城常光・三沢為清・三刀屋久扶・赤穴久清・湯原春綱などが、毛利家に寝返ります。
石見銀山を抑える石見・山吹城の本城常光が寝返ったのは大きく、米原綱寛も、1562年に毛利氏へ下りました。
1565年、月山富田城攻め(月山富田城の戦い)では、小早川隆景に軍勢に米原綱寛がおり、使者となって、山中幸盛(山中鹿之介)の叔父・立原久綱と交渉を担当しています。(尼子氏滅亡)
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1569年、尼子・新宮党の尼子勝久を擁した尼子再興軍が挙兵します。
この時、米原綱寛は、毛利勢として北九州に出陣していましたが、8月に出雲・月山富田城へ入り、再興軍討伐を命じられました。
しかし、豊後の大友宗麟が、米原綱寛に対して「尼子勝久を援助せよ」と密使を使わたようで、米原綱寛は出雲・高瀬城にて籠城し、尼子再興軍に参加しました。
1570年2月には、尼子再興軍として、布部山の戦いにも参じましたが、毛利輝元らに敗走。
米原綱寛は、高瀬城に戻って抵抗を続けるも、兵糧や矢玉も尽き、翌年1571年3月19日、吉川元春の攻撃にて落城し、尼子勝久が籠っていた出雲・新山城(出雲・真山城)へと逃亡しました。
その後、米原綱寛は武士を捨てて剃髪し、可春斎と号して隠居していますが、浪人して上洛したともされます。
上杉景勝からの招きもあったようですが断わり、寛永20年(1613年)に生涯を閉じました。
ちなみに、吉川元春は父・毛利元就の訃報を、出雲・高瀬城にて受け取っています。
毛利家が抑えると、出雲・高瀬城は、再び建部氏に任されたと言いますが、詳細は不明です。
米原綱寛の子・米原綱俊は、のち津和野藩士となっています。
他の子孫が名字を前原と変えて長州藩士にもなっており、その一族からは幕末に前原一誠を輩出しました。
米原氏が落城時に持ち出せず、城内に埋めたという「埋蔵金伝説」があります。
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出雲・高瀬城への交通アクセス・行き方ですが、JR荘原駅から徒歩20分で、高瀬不動明王近くの登城口で、登り口に5台ほどの駐車スペースがあるようです。
遊歩道も整備されていますが、遺構はほとんど残っておらず、山頂からの展望を楽しむ程度になっている模様です。
登城口から主郭まで約30分との事です。
・出雲・平田城の解説
・宇屋谷城の解説 神庭・神代神社【出雲国】
・満願寺城の解説 湯原春綱の武勇
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