山中城とは
山中城(やまなか-じょう)は、静岡県三島市山中新田のにある標高570m、比高40mほどの平山城で国の史跡。
日本100名城にも選ばれた素晴らしい遺構が残されているが箱根の「伊豆・山中城」だ。
三島から箱根峠に登る「東海道」(現在の国道1号)の交通要所の抑えとして、小田原城の北条氏が築城した小田原城の支城。
東西1.7km、南北2.6km、約20haの面積を有し、西側には駿河湾と富士山を一望におさめ、伊豆にある韮山城までも眺められた堅城である。
最初の築城としては、戦国時代に武田信玄の侵攻に備え、1558年~1570年頃、北条氏康により築城された。
北条氏の本拠地である小田原城の西の防衛を担うのが、この山中城と言う事になる。
山中城は東海道の道筋を場内に取り込む形で設計されている。
5倍の敵兵力には耐えられるとされていたようだ。
現在でも山中城内を旧国道1号が通過しており、当時、街道の通行監視も兼ねた重要防衛拠点であった事が伺える。
北条滅亡時に廃城になったことから、築城技術に優れていた北条氏の築城技法が良く見られる。
三島市により整備改修が行われ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土+上芝で保護している。
石垣は一切使用していない、土塁や空堀中心の城だが、堀は障子堀・畝堀など、北条氏の築城技巧が優れていたことが良く分かる。
訪れる前には、こんな山の中で水の確保はどうしたのだろう?と思っていたが、やっぱりあった。
池には現在でも水が張られていた。
「田尻の池」と東側の「箱井戸」の2箇所がある。
豊臣秀吉に対抗する西方の防衛最前線
北条氏政の代に豊臣秀吉と北条家との関係が悪化。
豊臣秀吉の小田原攻めに対抗するべく、防衛の前哨基地として1587年頃より改修工事を開始し防備増強を図る。
西の丸や出丸等の増築が行われたが、改修工事がまだ完全に終わらないうちに、豊臣秀吉の小田原攻めが開始され、1590年3月28日には、豊臣秀吉と徳川家康が山中城を視察。
3月29日に総攻撃が行われた。
北条勢は、豊臣勢来襲の際、関東一円の支城の防衛兵の多くを小田原城に入れるように指示しており、この山中城も例外ではなかった。
山中城には北条一族の北条氏勝が入り、城主・松田康長、松田康郷、蔭山氏広(河津城主)、朝倉元春(朝倉能登守、北条重臣)、多米長定(箕輪城主、北条七家老の一人)、長谷川近秀(北条七家老の一人)、追沼氏雅、行方弾正、宇津木泰朝、更に加勢した池田民部少輔、山中大炊助らが守備したが兵は4000~5000しか配置されておらず、10000の兵で守るように設計された広大の城を守るには少なすぎた。
そこに、豊臣勢は羽柴秀次を総大将に、中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末、徳川家康ら約7万で攻撃。
陣立ては先鋒右翼に計18300人(先鋒・中村一氏、池田輝政 2500人、木村重茲 2800、長谷川秀一 3600、堀秀政 8700、丹羽長重 700)
中軍には計19500人(豊臣秀次、一柳直末など17000、羽柴秀勝 2500)
左翼には、徳川家康 30000。
第二陣として山内一豊、堀尾吉晴らが配されていた模様。
山中城の戦い
1590年3月29日の朝8時30分頃、山中城の戦いが始まり、岱崎(だいざき)出丸へ突入開始された。
援軍で駆け付けていた北条勢の間宮康俊、間宮信冬は岱崎出丸を守備し、一柳直末を討ち取る活躍も見られたが、まず岱崎出丸が陥落し、間宮康俊は討死。
間宮康俊は死を覚悟しており、開戦前日に孫で15歳の間宮彦次郎直元を無理やり小田原城に撤退させており、御年73歳の白髪首を敵に供することを恥じて、髪を墨で黒々と塗っていたと伝わる。
三の丸も大きな抵抗をせずに陥落。
松田康長は岱崎出丸が突破されると、北条氏勝を逃がしたと言う。
戦功を焦った羽柴秀次が無理に攻撃したとも言われ、豊臣勢も被害は決して少なくなかったが、山中城は本丸も程なく破られ、残った北の丸(西の丸とも?)での攻防の末、城主・松田康長も戦死。北条勢は約2000名が命を落とし、開戦から2時間30分後の朝11時には勝敗が決したと言う。
北条氏勝は自害を図ろうたしたが、弟の北条直重・北条繁広の諫言に従って城を脱出し、僅かな供と一緒に本拠である玉縄城へ戻り、籠城した。
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銃弾により戦死した一柳直末(享年38)は、古参の武将で豊臣秀吉から信頼されており、軽海西城60000石を知行していた。
豊臣秀吉は黒田如水(黒田官兵衛)から一柳直末討死の報を聞くと「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、三日間ほど口をきかなかったと伝わる。
また、細川幽斎は「いと毛なる具足をかけて鉄砲の、玉にもぬける一つ柳か」と詠んでいる。
山中城の三の丸跡にある宗閑寺(そうかんじ)境内には、豊臣勢の武将の墓の1つに一柳直末の墓がある。
豊臣方で山中城本丸に1番乗りを果したのは、渡辺勘兵衛と言われており、小説・戦国幻想曲改版で、山中城攻撃の詳細もわかる。
徳川勢は山中城落城の同日に鷹之巣城を、翌日に井伊直政隊が攻城を開始した足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。
山中城で討ち死にした間宮氏では、北条氏没落ののち、常陸国筑波郡に住んだ間宮氏の系統で、樺太探検で有名になった「間宮林蔵」がいる。
畝堀、障子堀
敵が渡りにくい状況にするだけであれば、普通の堀で十分である。それなのに、なぜ、わざわざ畝堀や障子堀を築いたのであろうか?
色々と考えてみた・・。
堀に仕切りをして、畝堀や障子堀にすることで、雨水が貯まりやすくなるので、湿地のような役割をして、敵は進入しずらくなる。平時には貯まった雨水で、山城の水不足を補ったのかも知れない。
また、いざ敵が攻めて来た場合には、水が貯まっていなくても、堀の中を移動しにくい(侵攻速度を遅らせて、塁上から弓や鉄砲で打ち取りやすくする)状況を作りたかったのではと考える。
畝と言うのは、直線状に土を盛り上げた箇所の事を指す。
要するに「畝」があることで、その部分を通過できると言う事も考えると、デメリットとして、敵も進入しやすい?とも考えてしまう。
本当にこの畝や障子の堀は、敵の侵入を防ぐのに有効だったのだろうか?
敵が通るだろう道筋を限定させて、そこを鉄砲などで集中攻撃すると言う点においては、少ない防衛力でも対抗できると言う有効な防御方法なのかも知れない。
検証するには実際に戦ってみるしかないないのかも知れない。
この山中城を真剣に回ると1時間では足りない。スケールの大きい城跡である。
山中城への交通アクセス
山中城へのアクセスは新しい国道1号のバイパスから脇道となった旧1号に入る。
下記の地図ポイント地点が、山中城に最も近い駐車場となる。
なお、駐車場が混雑している際には、三島側にちょっと降りると大きな駐車場もある。
いずれも無料。
バスで向かう場合には、JR・伊豆箱根鉄道の三島駅から東海バス「元箱根」方面行きに乗車して所要約30分。
▼堀切の様子
▼立派な畝堀
▼広い西の丸
▼北の丸に続く、復元の木橋
▼本丸から西ノ丸を望む
▼深い本丸近くの畝堀
▼本丸から二の丸方面を望む
▼岱崎出丸の堀
▼富士山は見えないときもあるが展望が良い
山中城の第2写真集
下記の写真は改めて訪問した際のもの。
山中城の見学所要時間は、簡単に済ますと30分、じっくりあちこち見ると3時間といったところである。
夏には天気も変わりやすいので雨具を携行しながら散策できると良いだろう。
冬季は、国道1号も「凍結」する場合がある。
冬の箱根はアイスバーンになることもあるので、冬用タイヤは必須。
山中城の近くには、江戸時代に整備された東海道の石畳も残っている。
100名城に選ばれるだけあり、とても見ごたえもある。
三島市が一生懸命、整備・管理されているので、見学もしやすい。
トイレなども完備されているのでありがたい。
観光用吊り橋の「三島スカイウォーク」からもほど近い。
せっかく箱根まで来たのであれば、箱根観光もできると良いだろう。
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