三枚橋城(沼津城)
戦国時代に、春日信達(高坂昌元)が対北条の備えとして城主を務めた三枚橋城(さんまいばしじょう)は静岡県沼津市の中心部にある。
旧東海道の抑えになっており、現在の住所は狩野川河口の静岡県沼津市大手町になり、別名は観潮城とも言うので、水軍を有した海城とも言えるだろう。
北条氏康が東海道沿いに最初に「砦」を築いたとされ、その後、武田勝頼が1579年に梯郭式平城として本格的な築城を行い、武田家の駿河・伊豆国境の最前線拠点となった。
最前線拠点としてだけではなく、武田水軍の基地にもなった。
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最初の武田家城将は小笠原信嶺で、その後、曽根昌長、堀内政豊などとなり、最終的に春日信達(高坂昌元、高坂源五郎)が三枚橋城に入った。
1582年2月29日、春日信達(高坂昌元)が三枚橋城から退去し、もぬけの殻となった三枚橋城を占拠したのは徳川家康で、松平忠次が城主となっている。
1590年3月、豊臣秀吉の小田原攻めの際、臣従する為にはるばる馳せ参じた津軽為信は、この三枚橋城にて豊臣秀吉に謁見し所領を安堵された。
現在の三枚橋城跡としては本丸部分が、下記写真の中央公園となる。
その中央公園の西端に、下記の沼津城跡の石碑があり、過去っている石(岩)は、建設工事などで出土した石垣が使われている。
1601年、沼津藩が成立し大久保忠佐が藩主となると、沼津城と改名されたが、1613年に大久保忠佐が亡くなった際、嫡子がいなかったため、沼津藩大久保家は断絶となり、1614年に沼津城(三枚橋城)も廃城となった。
沼津城は旧国道1号沿いにあったが、目だった遺構は残されていないが、付近の建設工事などで発見された石垣の石が、沼津リバーサイドホテル前、アゴラ沼津前、中央公園の沼津城本丸址にて展示されている。
上記は沼津リバーサイドホテルの玄関前にある石垣。
上記写真は、三枚橋城の外堀跡の石碑で、ナティ沼津ビルの西側歩道にある。
また、沼津リバーサイドホテルの東側(狩野川沿い)には、下記の上土朝日稲荷神社があり、1577年に武田勝頼が三枚橋城の守護神として祀ったものとなる。
三枚橋城(沼津城)への交通アクセス・行き方だが、沼津駅から徒歩6分と便利。
駐車場はなかったので、小生は、下記の地図ポイント地点にあるコインパーキングを利用したが、10分ほど止めただけでは、精算料金0円であった。
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