庁鼻和城(こばなわじょう)は、埼玉県深谷市国済寺にある平城で、中山道に面しています。
別名は国済寺館です。
最初の築城は不明ですが、室町時代に新田氏に備えて上杉憲英が築いたとされます。
上杉憲英(うえすぎ-のりふさ)は、足利尊氏から任命された初代・関東管領である上杉憲顕の6男とされます。
母は、正室とされる木戸氏の娘です。
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要するに、山内上杉家の一族として、深谷に所領を与えられて分家したようで、上杉憲英は、庁鼻和上杉家の初代当主となりました。
庁鼻和城は、なかなか広かったようで、その中心部には、現在に至る国済寺が1390年に創建され、峻翁令山禅師を招請して開山としたとされます。
ただし、庁鼻和城の築城は1370年頃と言う話もあるため、国済寺はあとと考えて良いでしょう。
その頃に反乱を起こしていたのが新田義宗・脇屋義治で、その反乱鎮圧でも上杉憲英は活躍したとありますので、このとき、新田氏に備えて築城したのかも知れません。
奥州にて、吉良満家・二本松国詮・石塔義憲・斯波家兼がそれぞれ奥州管領を称して争いになると、1392年、室町幕府将軍・足利義満は、奥州管領を廃止して、鎌倉府の管国に編入します。
そのため、鎌倉公方・足利氏満によって庁鼻和上杉家が奥州管領に任ぜられ、上杉憲英と上杉憲光の親子が1403年頃まで、奥州管領を担当しています。
1404年、上杉憲英が死去すると、家督を継いだ上杉憲光は、1416年、上杉禅秀の乱で鎌倉公方に味方して討死。
その後、上杉憲信は、1441年の結城合戦で一色伊予守から勝利して結城城を攻略するなどしました。
このように、扇谷上杉家と共に武蔵国を割拠しましたが、1455年、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺し、享徳の乱が勃発します。
このとき、騎西城にいた上杉憲信は、足利成氏から攻められて、消息不明になったとも、翌年正月に病死したとも伝わります。
そして、1456年頃、も上杉房憲の代となるとすぐに武蔵・深谷城に本拠を移し、以後は、深谷上杉氏となっています。
廃城となった庁鼻和城跡には、そのまま常興山・国済寺が残ったようですが、防御機能は維持していたようで、支城扱いになったものと推測されます。
国済寺本堂の裏手には、土塁と築山の遺構があるようで、上杉憲英墓・上杉氏累代墓も守られています。
1590年、国済寺は、徳川家康から寺領30石の朱印状を受けました。
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また、庁鼻和城の大手門跡が幡羅町付近、庁鼻和城の北西隅土塁跡、庁鼻和城物見櫓跡などにも案内板類があるようです。
庁鼻和城への交通アクセス・行き方ですが、国道17号脇に、国済寺の参拝者用無料駐車場があります。
電車の場合には、JR深谷駅から歩いて約2km、徒歩30分の距離です。
そのあとは、武蔵・別所氏館跡へ向かいました。
・上杉禅秀の乱 【上杉禅秀の解説】
・5分で分かる足利尊氏とは
・笛吹峠の戦い 新田義宗X足利尊氏
・深谷城 深谷上杉氏の本拠 上杉憲盛・上杉氏憲
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