土佐・蓮池城とは
土佐・蓮池城(はすいけじょう)は、高知県土佐市蓮池にある標高30mの平山城で、比高は20mほどになります。
もともと土佐・大平氏が土着していた可能性がありますが、最初の築城は、平安時代末期の1170年とされ、平家の有力武士である蓮池家綱(蓮池権守家綱・近藤家綱)が築城したとあります。
この1170年には、土佐国を知行している藤原経宗が、平重盛の7男・平宗実を猶子として迎えて、土佐守としているため、この関連で平重盛の家臣である近藤家綱が土佐に入ったものと推測致します。
1180年、源頼朝が伊豆にて挙兵した際に、土佐・介良荘に流罪となっていた源義朝の遺児・源希義(みなもと-まれよし)が、土佐・夜須荘の夜須行宗(夜須七郎行宗)の協力にて兵を挙げようとしました。
しかし、平家側の蓮池家綱(蓮池権頭)と平田俊遠が察知して、源希義(土佐冠者)を殺害しています。
なんとか逃れた夜須行宗は、鎌倉に馳せ参じると、1182年、源頼朝は、源有綱(みなもと-ありつな)を大将に、夜須行宗を道案内とした大軍を派遣しました。
そして、蓮池家綱・平田俊遠ら、土佐の平家勢力は掃討され、近藤国平(こんどう-くにひら)に領地が与えられたともされます。
スポンサーリンク
この近藤国平は、源頼朝が伊豆にて挙兵したときからの古参と考えられます。
その近藤国平の子・大平国信のときから大平氏を称して、土佐・蓮池城として続きました。
蓮池城と申しますと、佐賀城からほど近い、小田直光の肥前・蓮池城が知られますが、このように、土佐の蓮池城も歴史あるとても重要な城です。
1467年に「応仁の乱」となると一条教房が、1468年に土佐・中村に移ります。
この時、一条教房の正室である冷泉為之の娘・宣司殿が、太平氏の大平之女房と言う女性と縁者だったこともあり、大平国雄・太平国藤は一条教房に味方しました。
一条教房は、堺から大平氏の領地である猪尻の港まで船で渡航し、土佐・蓮池城にて10日ほど休んだあと、幡多荘の中村館へ向かったと言います。
こうして太平氏も土佐・一条氏に従いましたが、1543年、一条房基が謀反を起こした津野基高を降伏させると、1546年に、土佐・蓮池城も攻撃を受けて、大平国興のときには所領を大きく減らしていたようです。
1557年には、土佐・本山城の本山茂辰が、森山城・秋山城・蓮池城を攻略したともありますが、1560年に本山氏が長宗我部元親と争った際に、隙をついて一条兼定が、土佐・蓮池城を奪還した模様です。
その後、1562年には、大平一族である大平国祐が、土佐・弘岡城(土佐・朝倉城か?)にて長宗我部元親に敗れて、讃岐・本台山城(多度津城)の香川之景を頼ったともあります。
スポンサーリンク
1563年には、本山氏が土佐・朝倉城を失い、土佐・蓮池城は長宗我部家が領したようです。
このように、大平氏は衰退し、宗家の大平国興も、蓮池城を奪回できないまま、1566年に一条氏と本山氏の挟撃を受けて、土佐・戸波城からほど近い積善寺にて自刃し、滅亡しました。
1569年、土佐・吉良城の吉良親貞が計略をもって蓮池城を奪い、土佐・戸波城へ逃れた城兵を追撃すると戸波城をも落とし、蓮池城には吉良親貞の子・吉良親実が入ったとされます。
吉良親実(蓮池左京進)は、幼少の頃から智勇に優れた武将で、長宗我部元親の娘を正室に迎えて、長宗我部氏の重臣となりました。
しかし、1586年に戸次川の戦いで討死した長宗我部信親の後継争いとなると、仲が悪かった久武親直が推した長宗我部盛親の家督相続に反対して香川親和を擁立しようとしました。
そのため、長宗我部元親の逆鱗に触れ、比江山親興とともに切腹となっています。
本丸には初代の蓮池権頭家綱を祀った蓮池神社があり、東麓には吉良親実を祀った吉良神社があるそうです。
現在城址は「城山公園」として整備されており、主郭は展望広場になっており、桜の名所でもあるそうでして、花見にも良いみたいです。
スポンサーリンク
土佐・蓮池城への行き方・交通アクセスですが、JR土讃線・朝倉駅から、とさでん交通バスにて「高岡高校通バス停」下車し、徒歩10分で登城口となります。
公園整備されているため、城址の北東側にある土佐市消防署の先に、駐車場が3台ほどあるようです。
国道にある案内から侵入する細い道は、歩行者向けとなっています。
・吉良城 吉良親実 最後の土佐・吉良氏
・土佐・戸波城 戸波親武 戸波親清
・長宗我部親貞(吉良親貞)とは
・長宗我部元親~5分で分かる長曾我部元親と四国統一
・長宗我部信親とは~戸次川の戦いで無念の壮絶な最期を遂げる
・一領具足とは 浦戸一揆 一領具足供養の碑
・四国の史跡や観光地巡り用オリジナル地図
この記事へのコメントはありません。