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湯築城とは
湯築城(ゆづきじょう)は標高71m、比高31mの梯郭式平山城で、別名は湯月城とも言い、愛媛県松山市道後町にあります。
国の史跡になっているほか、日本100名城にも選ばれています。
湯築城ができる前となる約2000年前には「伊佐爾波岡」と呼ばれた丘で、第14代天皇・仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際には行宮として使用されたと伝わります。
その伊予の守護職である河野家は、もともと風早郡河野郷(松山市北条地区)が本拠でしたが、源平合戦にて河野通信が源頼朝に味方して戦功があり、鎌倉幕府の有力御家人となりました。
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1221年の承久の乱で一度没落しますが、1281年、元寇の際に河野通有が活躍したことで復活します。
南北朝時代になる1335年頃、河野通盛が湯築城を築き、河野の里から本拠地を移し、約250年間、河野家の拠点となりました。
各
東に追手門(大手門)があり、西側が搦手(裏門)と推定されております。
また、1535年には、河野通直が湯築城の周りに二重の堀(温付堀)をめぐらせ、政治・軍事・文化の中心を担いました。
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河野通直
伊予の戦国大名である河野通直(こうの-みちなお)は1564年に生まれました。幼名は牛福丸。
父は来島村上家の村上通康と考えられており、母は宍戸隆家の娘です。
1567年に、父・村上通康が没すると、母・宍戸隆家の娘は1568年に湯築城主・河野通直(先代になる河野弾正少弼通直)に再嫁したとされます。
すなわち、河野家の直系では無かったのですが、先代の河野通宣に跡継ぎがいなかった為、養嗣子となり、1568年に養父が隠居すると家督を継ぎました。
しかし、河野伊予守通直は、僅か5歳で当主となった為、実父ともされる河野通吉が河野家を切り盛りしました。
既に河野家は弱体化していた為、家臣の菅田城主・大野直之が長宗我部家などに内通したので、毛利家に助けてもらいながらなんとか政権を維持しています。
若年の河野通直はと言うと、意外にも人徳があり、多くの美談があります。
敵対していた大野直之が降伏した際には、河野通直の人柄に感服したとされる逸話もあり、何度も離反した大野直之も心従したとされます。
1585年、豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野家では意見がまとまらず、小田原評定のように湯築城にて篭城することしかできませんでした。
その時の模様を再現しているのが下記です。
約1ヶ月の籠城戦となったあと、小早川隆景の降伏勧告を受けています。
この時、河野通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため、自ら先頭に立って小早川隆景と交渉し、湯築城跡にある石碑にこの逸話が刻まれています。
と言いつつ、すみません。石碑はそのまま素通りしてしまいました。
下記写真の近くにあります。
河野通直の所領は没収され、有馬温泉経由で高野山に蟄居となりました。
そのあと、小早川隆景が35万石で伊予・湯築城主となり、大洲城も支城としました。
下記は、湯築城の遮蔽土塁です。
その後、河野通直は小早川隆景の旧領である竹原城付近に移ったようですが、1587年に病死したとされます。(享年24)
ただし、豊臣秀吉が河野通直に死を迫り、切腹させたとも考えられるようです。
下記は湯築城の一番の見どころとも言える、岩場です。
下記の階段は、なぜか幅がとても広いです。
気にせず、展望台がある本丸へ登って行きました。
写真、たくさん撮りすぎたので、連続でいきます。
下記は湯築城の本丸です。
本丸の展望台に上がりますと、若いカップルさんがおられまして「これは、邪魔しちゃったかな?」と思いましたが、そそくさと松山城を最大望遠にて撮影して、降りてきました。
小早川隆景が河野通直を弔った墓は竹原の長生寺に現存します。
1587年、湯築城には福島正則が入りましたが、国分山城を本拠としたため、湯築城は使われなくなりました。
なお、河野家は河野通直(河野伊予守通直)の養子となった、宍戸元秀の子・河野通軌が継ぎましたが、1600年、関ヶ原の戦いのおり、村上武吉・村上元吉らの村上水軍と共に、旧領回復を目指しました。
そして、加藤嘉明が留守中の松前城(正木城)を有利に攻めるも、三津刈屋口の戦いにて夜襲を受けて討死しています。
ちなみに、1602年、加藤嘉明は勝山(城山)に松山城を築城開始しています。
西側は、このように庭園風になっています。
下記は土塁ですね。
湯築城跡の南側には、武家屋敷などが再現されていますが、コンクリ建物風なので、イマイチです。
しかし、無いよりは全然マシです。
下記は、地面の穴に石を詰めている状態なのですが、どのような用途があったのか、良くわかっていないそうです。
これでも、写真だいぶ、不採用があるのですが、もう、写真が多すぎて文章が足りません。
しかし、市電が入っている風景って、イイですよね~。
日本100名城スタンプの設置場所は、湯築城資料館になります。
堀の周りの庭園も、整備が行き届いております。
湯築城跡の見学所要時間は約50分でした。
下記は、北側にある石造湯釜です。
河野通直も道後温泉で入浴していたと言いますので、毎日、お風呂入っていたのでしょうか?
当時としては、かなり贅沢な話ですね。
道後温泉側から湯築城跡を見ると下記のような感じです。
現在の湯築城は道後温泉街の脇にある「道後公園」として整備されており、温泉旅館に泊りがてら訪れやすいです。
公園にはトイレも整備されており、無料の湯築城資料館や武家屋敷の復元もあります。
また、北側には正岡子規の博物「子規記念博物館」もありますので、ファンの方はどうぞ。
伊予・松山城は約1km西の位置にありますので、セットでどうぞ。
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湯築城への交通アクセス
湯築城の駐車場は北口付近に11台と西の搦手付近の23台の2箇所(24時間)ですが、いずれも有料30分=100円です。
下記の地図ポイント地点は、西の資料館側の駐車場となります。
地図は縮尺を変えてご覧願います。
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