舟岡山城(ふなおか-じょう)は石川県白山市八幡町にある山城で、舟を逆さまに置いたような形の山城です。
別名は、舟岡城、剣城、鶴来城、八幡城、白山城となります。
最初の築城は不明ですが、越登賀三州志によると、長享年間(1487年~1489年)には、坪坂平九郎が舟岡山城にいたとあります。
その後、加賀・一向一揆が勢力を拡大し、白山の一向一揆を率いた鈴木出羽守が、改修したともされます。
そして、一向一揆の若林長門守が守備した模様です。
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1580年、織田勢の一向一揆攻略では、佐久間盛政が謀略によって若林父子を殺害して舟岡山城を奪ったとされています。
その後、丹羽長秀が金沢城に入ると、家臣の早谷五左衛門が舟岡山城に入りました。
前田利家に加賀が与えられたあとは、1583年から高畠定吉が1万7000石にて城主になっています。
高畠定吉(たかばたけ-さだよし)は、尾張の出身で、200石にて古くから前田家に仕えた荒子七人衆(村井長頼、吉田孫兵衛、小塚藤右衛門、高畠定吉、原田又右衛門、金岩与次之助、木村三蔵 )で、前田利家の妹・津世姫(長久院)を正室(継室)に迎えています。
越前府中二十一人衆に名を連ね、七尾城、加賀劔、越中・宮崎城などの守将を務めたほか、関ヶ原の戦いの際には、病気を理由に、前田利長より金沢城の留守を任されました。
どうやら、高畠定吉は石田三成に協力するよう進言するも、受け入れられなかったため、病気と言う事で出陣を拒否した模様です。
高畠定吉(高鼻石見守)は、1602年に出家して隠居したようですが、事実上の出奔だったようで、以後は京都で余生を送りました。
舟岡山城は、1604年に廃城になったともあります。
舟岡山城への登城口は白山比咩神社の駐車場から、少し北に歩いた交差点の脇からだそうです。
石川県立白山青年の家の尽力によって、遊歩道が整備されているようで、受付では案内図を頂くこともできるそうです。
舟岡山城への交通アクセス・行き方としては、北陸鉄道・西金沢駅から石川線に乗車して、鶴来駅で下車し、徒歩30分となります。
駐車場は、白山比咩神社の大きな無料駐車場も利用すると良いでしょう。
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