明智長山城(あけちおさやま-じょう)は、岐阜県可児市瀬田長山にある山城で、標高は175m、比高80mほどになります。
別名は美濃・長山城、明智氏の本拠とされることから、美濃・明智城と書く場合もあります。
最初の築城としては、美濃守護・土岐頼貞の10男である土岐頼兼が明智八郷(明智庄)を与えられて、領して長山頼基(明智頼基)を称したとされます。
そして、明智頼兼(土岐明智二郎下野守頼兼)が1342年に明智長山城(美濃・明智城)を築いたとされます。
恐らくは麓に屋敷があり、山の上は詰め城として使用していたと考えてよいでしょう。
可児市(かに-し)にあり「明智光秀のふるさと」(出身地)としても有力です。
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ただし、明智氏に関しては、よくわかっておらず、発祥地は恵那市明智町の明知城であり、土岐氏の5代・土岐頼遠が1339年に岐阜の長森城に移った際に、明智家の本家は明智庄に移動したともされています。
江戸時代初期の書物『美濃国諸旧記』の「明智城の事并地の戦記」に下記のような記述があります。
明智城といふは、土岐美濃守光衡より五代の嫡流、土岐民部大輔頼清の二男、土岐明智次郎長山下野守頼兼、康永元壬午年三月、始めて是を開築し、居城として在住し、子孫代々、光秀迄是に住せり。
いずれにせよ、明智氏は、美濃守護である土岐氏の一族として、室町幕府の足利将軍に直接仕えた奉公衆になりました。
ただし、それから200年間、戦国時代になるまで、明智氏の動向は不明です。
戦国時代になって、1556年9月19日、明智長山城(美濃・明智城)は、主家である稲葉山城の斎藤義龍が派遣した軍勢によって攻撃を受けました。
これは、1556年4月に発生した長良川の戦いにて、明智氏は、敗れて自刃した斎藤道三に味方していたためで、勝者の斎藤義龍より、討伐を受けたと言って良いでしょう。
美濃・明智城主である明智光安は、弟・明智光久や明智一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由、妻木城の妻木氏ら870名ほどで籠城しました。
しかし、揖斐光就・長井道利ら斎藤勢3700によって2日間攻撃を受けて、明智光安と明智光久や妻子らは自刃しました。
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この時、明智光安・明智光久の兄で、既に討死していた明智光綱の遺児、すなわち、明智家の正当な後継者とされる明智光秀は、明智秀満に助けられて、越前に逃れたと言われています。
そのため、明智光秀はここ明智長山城(美濃・明智城)で生まれたともされますが、出生地に関しては、美濃・明知城であるとする説もあります。
他にも諸説ありますので、まぁ、よくわからないと言ったところです。
また、斎藤道三の死によって、織田信長に嫁いでいた帰蝶(濃姫)との結婚も意味がなくなっため、織田家が美濃の母・小見の方の実家である叔父・明智光安の明智城に返していたとする説もあります。
そのため、濃姫(22歳)も、明智一族と運命を共にしたとする場合もあります。
明智城はしばらく放棄されたようですが、1574年に武田信玄の死去すると、織田勢が明智城を手に入れています。
その後、武田勝頼が奪還しましたが、翌年の1575年、長篠の戦いにて勝利した織田勢の織田信忠が美濃・岩村城と、美濃・明智城を落城させています。
ただし、この落とした美濃・明智城は、美濃・明知城であった可能性も感じます。
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と申しますのは、明智長山城(美濃・明智城)の本丸などからは、発掘調査の結果、建物跡が見つかっていません。
そのため、明智氏の一族が敗れた際に、廃城になっていたとしても、おかしくないからです。
確かに、防御性は、あまり良いとは言えない山の斜面となっています。
ただ、明智城址は本丸跡や曲輪・土塁などの遺構が、良く残っており、散策道も整備されていますので、城跡としてはお勧めです。
明智家菩提寺である天竜寺が北側にあり、明智一族の墓が参拝者駐車場にあります。
その参拝者駐車場は、奥の方です。
天竜寺には、明智光秀の位牌(明智光秀位牌では高さ184cmと日本一)があります。
わざわざ、天竜寺さんのお堂の入口部分に、明智光秀の位牌を出して、みんなが拝見・お参りできるように、配慮がされていました。
普通、位牌は、仏像の裏であったり、格納している場合が多いですが、素晴らしい、おもてなしの方法だと存じます。
本丸の脇には、七ツ塚がありますが、落城のとき討死した明智七武将を葬ったとされています。
また、天竜寺(天龍寺)では、旧暦6月には光秀公御法要が毎年営まれています。
更に、天竜寺では、毎月、最後の金曜日限定の「金の御朱印」なる貴重な御朱印もあるそうです。
私は、御朱印も日本100名城のスタンプも行っていないので、よくわかりませんが・・。
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明智長山城(美濃・明智城)への交通アクセス・行き方ですが、名鉄・広見線の明智駅から徒歩25分で登城口です。
北側の大手門側に公園駐車場があり、そこから登って行けます。
なお、本丸に近いのは、南側の羽生ヶ丘の住宅地(二の丸)からの登城口です。
ただ、住宅地で、駐車場が無いのが欠点ですので、クルマの場合には、やはり、北側の麓に止めて、登って行くのが妥当なようです。
2020年NHK大河ドラマは、明智光秀の生涯を描く「麒麟がくる」です。
すぐ近くには、2020年に「大河ドラマ館」も開設されるようです。
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