後瀬山城(のちせやま-じょう)は福井県小浜市伏原にある城跡で、標高168m、比高は160mと堅固な山城です。
別名は武田氏城、とも言いますが国の史跡にも指定されています。
室町幕府・相伴衆である武田信栄は、1440年、丹後守護・若狭守護の一色義貫を誅殺した功績にて、若狭守護を任じられます。
そして、若狭の高浜に屋敷を構え、若狭・武田氏となりました。
2代・武田信賢(たけだ-のぶかた)のとき、小浜に館をもうけて本拠移すと、海辺の青井山城を詰の城にしたようです。
5代・武田元信(たけだ-もとのぶ)が若狭・武田家を繁栄させると、そのあとを継いだ武田元光(たけだ-もとみつが、1522年に、堅固な後瀬山城を築きました。
北の北山麓には、水堀で囲った若狭守護館を置いたことから、武田氏館とも呼ばれる由縁です。
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武田元光は、足利義晴の命を受けて軍勢を出すなどしながら若狭の統治を進めて戦国大名化しました。
しかし、安定はしておらず、武田信孝を擁立した粟屋元隆や逸見氏が反乱を起こし、越前・朝倉孝景が介入するキッカケを与えてしまいます。
若狭武田氏第7代・武田信豊(たけだ-のぶとよ)は、六角定頼の娘を正室に迎えて、観音寺城の六角氏と同盟を結びましたが、逆に内紛を増やす結果となりました。
※甲斐武田氏にも武田信豊がいるため注意が必要。
義兄・細川晴元が三好長慶と対立すると、1542年、細川晴元を支援すめため三好長慶を攻ましたが、敗れて有力武将の多くを失いました。
1548年、嫡男・武田義統は、足利義輝・足利義昭の妹を正室に迎えています。
1552年、細川晴元が三好家から逃れて来ると、若狭にて擁護し連歌会などを催しています。
また、1554年、細川晴元の要請にて、重臣の逸見昌経を丹波に出兵させましたが、三好家の家臣・松永長頼と戦い敗れています。
このように武田信豊は、求心力を失い、重臣らは独立勢力となっており、隠居して家督を譲らなくてはいけない状況に追い込まれたようです。
しかも、その跡目相続で争いとなります。
武田信豊は、次男の武田信方(たけだ-のぶかた)に家督を譲って、その後も権力を得ようとしたようでして、この策には重臣・粟屋勝久も協力しました。
ただし、嫡男の武田義統(たけだ-よしむね)は朝倉氏の支援を受けて家督継承の正当性を訴え、1556年に若狭・国吉城主・粟屋勝久を破り、家督を認めさせました。
父・武田信豊は近江に逃亡し、砕導山城の逸見昌経は、武田義統と対立しました。
その後も、武田義統は朝倉氏の援軍を得て、反抗している家臣らを攻撃していますが、完全に鎮圧するには至りませんでした。
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1566年には、還俗した足利義昭は六角義賢を頼っていましたが、その後、妹婿である武田義統に将軍就任への協力(上洛)を求めて、若狭を訪れました。
しかし、若狭武田家は、内乱でそれどころではなく、武田義統は実弟・武田信景を室町将軍家に出仕させることで、協力姿勢を示しています。
そして、足利義昭はすぐに越前の朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請しました。
こうして、朝倉氏のもとにいた明智光秀が、奉公衆として足利義昭に使えるようになったと考えられます。
1567年4月、武田義統が死去(享年42)すると、僅か6歳とも13歳ともされる武田元明(たけだ-もとあき)が家督を継いで当主になりました。
婚姻時期は不明ですが、武田元明の正室は、京極高吉の娘・京極竜子で、津川義勝など2男1女を儲けています。
1568年、越前の朝倉義景は、内紛が続く若狭・武田家の武田元明を保護すると称して、朝倉景恍、半田又八郎ら大軍を若狭に派遣します。
国吉城、手筒山城などが陥落し、朝倉勢が後瀬山城を包囲すると、武田元明は自害しようとしました。
しかし、朝倉氏は親族であるから身柄を保護すると言い、武田元明を一乗谷城(朝倉館)に移らせて、その後、若狭を実効支配します。
こうして、若狭・武田氏は、朝倉氏に従属する形となり、若狭の国人衆も朝倉氏に臣従しました。
しかし、独立性が高かった逸見昌経、熊谷直澄、粟屋勝久などは完全には従わず、織田氏の勢力が及んでくると、織田信長に通じました。
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1570年、織田信長が越前に侵攻開始した際には、粟屋勝久や松宮玄蕃らが織田勢に加わって道案内をしています。
その後、織田家で佐和山城主の丹羽長秀が若狭守護となって、若狭半国を与えられ、若狭衆(武田元明・逸見昌経・内藤越前守・香川右衛門大夫・熊谷直澄・山県下野守・白井光胤・粟屋勝久・松宮玄蕃・寺井源左衛門・武藤景久・山県秀政ら)は、与力として加えられました。
しかし、武田元明はいまだ朝倉氏の元にいる状態が続く中、1573年8月、織田信長によって朝倉氏は滅亡しました。
武田元明は解放されましたが、若狭一国は丹羽長秀に任せられて後瀬山城に入ったため、遠敷郡小浜にある若狭神宮寺桜本坊にて武田元明は生活しています。
後瀬山城は大規模に改修されて、石垣ができ、年代は不明ですが、天守も設けられたと言われています。
1581年、ようやく武田元明は、織田家から若狭・石山城を与えられていますが、3000石でした。
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1582年6月、明智光秀が本能寺の変を起こすと、明智光秀と京極高次に通じて、若狭衆と近江・佐和山城を陥落させました。
しかし、山崎の戦いで、明智光秀が敗れると、佐和山城の丹羽長秀の反撃を受けて、近江海津(貝津)の法雲寺に呼び出され、謀殺されました。
一説によると、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の命とも、自害したともされます。
生年が諸説あるため、享年は21か、享年31のどちらかとなっています。
こうして名門若狭武田家は滅亡しました。
その後、豊臣家ゆかりの浅野長政や木下勝俊が後瀬山城主となっています。
1600年、関ヶ原の戦いにて、京極高次に若狭一国が与えられると、新たに海岸沿いに、若狭・小浜城の新築を開始しました。
しかし、難工事だったため、しばらくは、後瀬山城が使われていたようです。
北側にある城下町の空印寺付近に、藩主の館があったようで、酒井家時代の1642年に小浜城が完成すると、後瀬山城は廃城になりました。
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後瀬山城への交通アクセス・行き方ですが、トンネル脇にある、愛宕神社の参拝者用の駐車場にクルマを止めて、愛宕神社からも登って行けます。
JR小浜線の小浜駅からですと、徒歩10分で登城口です。
ただし、階段がキツイようですので、夏場は水分補給など、熱中症対策があると良いでしょう。
また、常高寺の境内には、立派な「お初の墓」もあるとのことです。
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