水口城
水口(みなくち)は重要な場所でもあったことから、関ヶ原の戦いにて落城した水口岡山城がありましたが、その後、徳川家の直轄地として東海道の宿場町になっていました。
その後、3代将軍・徳川家光が、京都への上洛の際の宿舎として、1634年、水口に新城を築かせたのが、滋賀県甲賀市水口町の水口城(水口御茶屋)となります。
下記写真中央の木々がこんもりしている所が、平城である水口城です。
下記写真がその御殿があった水口城の本丸部分ですが、現在は校庭が無い水口高校のグランドとして使用されています。
建造物や石垣の一部は、水口岡山城から転用されたと言われていますが、工事には述べ10万人が携わりました。
水口城(みなくちじょう)の作事奉行は有名な小堀政一(小堀遠州)が担当し、水口城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿も築かれたと言います。
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湧水を利用した薬研堀(やげんぼり)に水をたたえたことから「碧水城」(へきすいじょう)と言う別名もあります。
水深は15mもあるそうですが、湧水の取り口や排水口は現在でも不明との事です。
本丸は京都二条城を小型にしたものとされますが、実際に将軍が宿泊したのは、この徳川家光の上洛時1回だけで、その後、江戸幕府が派遣した城番が管理を担当した「番城」となりました。
水口城は、居館式城郭であり、水堀で囲んだ本丸と、管理業務を行う、二の丸曲輪だけの構成でした。
乾櫓跡の石垣が、途中から「ヘン」なのは、明治の廃城時に鉄道敷設などのため、石垣が撤去されたらしく、のちに復元したらこうなってしまったようです。
今でしたら、何十億と掛けて石垣も正確に復元するのでしょうけど、そんな事、構わない時代があったと言う事です。
ただし、1682年に加藤明友が2万石で水口藩主となると、水口城を居城とします。
また、一時は鳥居氏と藩主は交替していますが、いずれも水口城は、徳川幕府から借りていると言う認識だったようで、本丸の御殿は使用せずに、二の丸にて政務や生活を送ったとの事です。
水堀に囲まれた本丸御殿はそのまま使われることなく、1713年に解体され、本丸は空き地のまま明治維新を迎えました。
本丸北東部にある櫓台石垣上にある水口城資料館は、払い下げられていた乾矢倉を再移築したものとなります。
現在、二の丸の遺構は失われていますが、本丸から大手虎口出丸にかけての水堀と石垣が残されています。
以上、水口城でしたが、駐車場は下記の地図ポイント地点の市営体育館脇を利用させて頂きました。
下記の地図ポイント地点から駐車場にアクセスしましたが、西側の道路からも入れます。
電車での行き方は、近江鉄道の本線にて水口城南駅で下車、北へ徒歩4分となります。
水口城の見学所要時間は約30分でした。
水口も駅の方に行きますと、古い町並みが残されており、とても雰囲気の良い所でした。
この記事は当方の関ヶ原情報より抜粋・再編集したものとなります。
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