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越中・福光城とは
越中・福光城(ふくみつ-じょう)は、富山県南砺市旧福光町福光にある平城です。
福光館、福満城とも言います。
同じ名前で石見・福光城もありますので、混同しないよう注意が必要です。
平安時代の末期の寿永年間(1183年頃)には、石黒光弘(石黒太郎光弘)の居城でした。
石黒氏は、孝元天皇の孫・武内宿禰の後裔になる古代豪族・利波氏、または藤原北家・魚名流利仁流の井口氏の流れを組む名門で、石黒荘を領していました。
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木曾義仲(源義仲)の軍勢が、般若野の戦い、倶利伽羅峠の戦いで平家から大勝利した際にも貢献したようで、1184年に越中・木舟城を築いて支城としたようです。
南北朝時代には、南朝の宗良親王が石黒氏の館に立ち寄ってとありますが、これは越中・福光城なのかも知れません。
やがて、井波瑞泉寺の一向宗徒が活発になると田屋川原の戦いにて、加賀守護・冨樫政親と結んでいた越中・福光城の石黒光義(石黒右近光義)は、敗れて討死したようで、宗家は衰退しました。
それ以降は、越中・木舟城の石黒家が宗家をしのいでおり、石黒家の中心となりました。
戦国時代と考えられます(違うかも知れません)が、宗家の石黒光秀(石黒太郎光秀)は、すぐ北方の越中・西勝寺城(高楯館)を本拠とし、弟の石黒光信(石黒五郎光信)が福光城、そして、石黒光秀の次男・石黒宗五郎は、山本村にの山本城に住んだともあります。
松ノ木館や越中・桑山城、太見館も石黒一族が入りました。
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と言う事で、すでに平城の越中・福光城は使われていなかったのかも知れません。
現在の栖霞園(せいかえん)の辺りに、屋敷があったとされますが、遺構は残っていません。
この越中・福光城跡にある栖霞園ですが、この付近、道路が狭く、曲がり角ではレンタカー、大変でした。
古い城下町が、残っている証拠ではありますが・・。
巴御前松公園
ほど近いところに「巴御前松公園」と言う小さな公園があります。
これは、木曽義仲の妻とされ、また一騎当千の女武将でも知られる、巴御前(ともえ-ごぜん)に、義仲の公園です。
木曽義仲の死後、巴御前は、和田義盛の妻になっていました。
しかし、和田合戦にて和田氏が滅亡すると、かつて共に戦った石黒氏の世話を受けたとあります。
そして、晩年を過ごした場所と言い、死後に侍女が松(巴塚の松)を植えたとの伝承があります。
巴御前の命日とされる10月頃には、法要も行われているようです。
戦国時代にこのあたりは、越中・遊部城の雑賀安芸守が領していた模様です。
越中・福光城の場所と、巴御前松公園があるところは、当方のオリジナル北陸地図にてポイントもしていますので、交通アクセス・行き方などとしてご参考頂けますと幸いです。
ただし、自動車を止められるような駐車場は、みつかりませんでした。
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