静岡県にある浜松城(はままつ-じょう)は、続日本100名城にも選ばれている梯郭式平山城で、もともと曳馬城(引馬城、引間城)(ひくま)と呼ばれていました。
地形的には、三方ヶ原のある台地の突端にあります。
築城者は諸説ありますが、瀬名姫の先祖・今川貞相であるとされています。
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曳馬城
先に現在の浜松城より古い曳馬城をご紹介致します。
下記の地図ポイント地点が曳馬城(引馬城)があったとされる浜松東照宮の場所です。
浜松城の無料駐車場から国道152号を渡ったとこの小高い丘の上です。
現在は浜松東照宮となっています。
1514年には、今川義元の家臣・飯尾乗連が曳馬城主となりましたが、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち果たすと、のちの城主・飯尾連竜が、今川氏真から謀反の疑いを掛けられ、1565年、曳馬城は今川軍の攻撃を受けて大きな被害をになったとあります。
しかし、陥落は免れ、和議を結んだ飯尾連竜は、その後、今川氏真に殺害されました。
その後の曳馬城は、飯尾連竜の未亡人・お田鶴の方(椿姫)が中心となり、飯尾家を守っていたようですが、1568年12月、岡崎城主・徳川家康が攻め込んで攻略した模様です。
武田信玄が駿府への進出を計るようになると、徳川家康は1570年に岡崎城を嫡男・松平信康に任せて、本拠地をここ遠江の曳馬城へ移し、拡張しました。
しかし、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北に繋がり縁起が悪いと言う事で、かつてこの地にあった荘園である浜松荘の名から城名・地名とも「浜松」と改めたのです。
浜松城
1573年、武田信玄は浜松城を無視して西へと進軍。この時は、挑発された徳川家康は浜松城から打って出ますが、三方ヶ原の戦いで大敗北しています。
浜松城の改修工事は1582年ごろに終わったようですが、1586年、徳川家康は本拠地を駿府城に移しました。
徳川家康の浜松城在城期間は29歳から45歳までの17年でした。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで、徳川家が関東に移ったあとには、堀尾吉晴が浜松城に入り、大きく改修されたようです。
関ヶ原の戦いの功績で出雲の富田に移封されると、その後は、徳川頼宣や譜代大名が入れ替わり入っています。
その浜松城主となった大名が、5万石ながらも次々と幕府の重役に出世したことから「出世城」とも呼ばれたそうです。
浜松城の本丸に「若き日の徳川家康公の銅像」があります。
浜松城の天守門は天守曲輪の大手に、2014年3月に復元されました。
銀明水と呼ばれている井戸。
浜松城の天守曲輪は、ほぼ戦国時代のままの野面積みの石垣が残っています。
天守は模擬天守です。
続日本100名城のスタンプがある場所は、浜松城天守閣一階だそうです。
天守からの展望です。
穴蔵と呼ばれる天守閣の地下には「井戸」があります。
有料拝観の天守閣を含めて、観光所要時間は約40分です。多少ですが階段があります。
また、曳馬城とされる浜松東照宮も見学される場合には移動時間も含めてプラス15分となります。
浜松城のアクセスですが、東海道新幹線/JR東海道本線の場合、JR浜松駅から徒歩約20分。遠州鉄道鉄道線の新浜松駅からは徒歩約20分です。
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交通アクセス
JR浜松駅の観光案内所にてレンタルサイクルもあります。
車の場合は、浜松城公園駐車場が有料で117台。
駐車場などは、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしています。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)
この記事は、戦国武将列伝Ωの記事を再編集したものとなります。
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