魚津城とは
魚津城(うおづ-じょう)は、富山県魚津市の平城で、別名は小津城、小戸城と言います。
魚津城は、旧北陸道に面した交通の要衝にあります。
なお、角川と鴨川に挟まれた沼地のため、攻めにくい城でした。
最初の築城は南北朝時代の1335年で、椎名孫八入道が築城したとされています。
椎名氏は、千葉常胤の弟・椎名胤光からの氏族で、越中・松倉城が本拠地でした。
そのため、魚津城は、支城であった可能性が高いです。
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なお、越中・魚津城がよく知られるようになったのは戦国時代になります。
1569年、椎名康胤は、武田信玄や加賀・越中の一向一揆と結び、上杉謙信に対して兵を挙げます。
そのため、上杉謙信は、松倉城を落とせなかったようですが、魚津城は攻略したようで、上杉家から河田長親が魚津城主として送られています。
しかし、1571年、一揆衆に敗北したようで、椎名氏と上杉氏は和睦もしています。
ところが、1573年、武田信玄が西上を開始すると、椎名康胤と一向一揆は再び上杉家に刃を向けたため、椎名家は滅ぼされています。
こうして、河田長親が越中・松倉城に入り、越中の統治をおこないました。
1578年、上杉謙信が死去すると、織田勢の攻撃がますます激しくなります。
柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政・内ヶ島氏理らの越中侵攻によって、1582年には、魚津城の戦いとなりました。
織田勢は4万とも言われる大軍に対して、魚津城は3800に過ぎなかったと言います。
上杉勢は、中条景泰(なかじょう-かげやす)を大将に、竹俣慶綱、吉江信景、寺嶋長資、蓼沼泰重、藤丸勝俊、亀田長乗、若林家吉、石口広宗、安部政吉、吉江宗信、山本寺景長、吉江景資らが守備しました。
河田長親の病死後、鳥坂城主の中条景泰が越中戦線に送られていたと言う事になります。
攻防戦はすさまじく、魚津城の諸将は「魚津在城衆十二名連署状」を春日山城に送って救援を要請しました。
そのため、上杉景勝は援軍5000にて越中・天神山城に入りましたが、戦力差が顕著だったのと、織田勢の防御態勢も柵や堀を作るなどしていたため、積極的に攻勢には出れていません。
また、海津城の森長可、厩橋城の滝川一益が、越後への動きを示したため、上杉景勝は、事実上、魚津城を見捨てる形で、春日山城に退却しました。
このとき、上杉景勝は、城を明け渡して和議を結び、越後に戻って良いと言う直判書を城中に送ったとも言われています。
しかし、魚津城では、上記でご紹介した武将ら魚津在城十三将の全員が自刃して果て、落城しました。
自刃した13人は、自分の耳に穴を開けて、自分の名前を書いた木札を結んだうえで、自害したと伝わります。
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これにより、上杉家は越中を事実上失い、織田家の大軍を本拠地で迎えるしかないと言う窮地に陥ることになりました。
特に老将・吉江宗信は上杉家から評価されたようで、山形県米沢市の上杉家菩提寺・林泉寺に墓もあります。
しかし、魚津城が、落城した日にちは、1582年6月3日です。
歴史に詳しい方は、お気づきのはずですが、織田信長が本能寺の変で討たれたのが、6月2日でしたので、明智光秀の謀反を6月5日~6日頃に聞いた織田勢は、慌てて帰散します。
そのため、からっぽになった魚津城には、上杉勢の須田満親が入って取り戻し、上杉家は救われ、その後、一番早く豊臣秀吉に恭順することで存続します。
翌年、1583年に、佐々成政が侵攻すると、魚津城を明け渡して、須田満親は信濃・海津城主となりました。
この須田満親(すだ-みつちか)は、上田城主・真田昌幸との交渉も務めたことから、真田信繁(真田幸村)が上杉家の人質となった際に預かっています。
代わりに魚津城には、佐々一族の佐々新左衛門が入った模様です。
豊臣秀吉が富山城を攻めて佐々成政が改易されると、七尾城に入った前田利家の領地となり、青山吉次などが魚津城を任されています。
江戸時代となり、1615年の一国一城令で廃城になったようで、そのあとには、加賀藩の米倉や武器庫が置かれ、城跡の周囲に奉行所や寺院もあったと言います。
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魚津城の中心は、大町小学校のあたりのようで北西隅には土塁もあると言いますが、周辺は市街地となっています。
なお、小学校の入口にトップ写真のように石碑がありました。
校門の手前ですので、不法侵入にならずに、写真撮影も可能です。
あとになって、分かったのですが、平日の場合には、職員玄関横の事務所で許可を得ると、児童玄関前の石碑など見学できるそうです。
なお、土日祝日は、許可が無くても、自由に見学できるそうです。
とてもありがたいですね。
しかし、現在の魚津城跡は、ほとんど遺構が無いのが現実です。
交通アクセス
魚津城跡への行き方・交通アクセスですが、電鉄魚津駅から徒歩3分になります。
駐車場がなく、街も古い町で道路がそんなに広くありませんので、車を止めるところには難儀します。
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