越中・天神山城(てんじんやま-じょう)は、富山県魚津市天神山にある梯郭式山城で、別名は萩城と言います。
標高は163mの松尾山にあり、比高は90mほどになりますが、比較的コンパクトな山城です。
いや~、これまた、ややっこしい城跡ですね。
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まず、天神山城と言う山城は、日本全国、あちこちにあります。
有名なところですと、まず、関東では埼玉県の長瀞にある山城の武蔵・天神山城、東京は小菅村にも武蔵・天神山城、三鷹市にも天神山城があります。
その他、新潟市、岡山県、福井市、兵庫県、鳥取県など、あちこちに、天神山城があります。
更に、別名の萩城に至っても、有名な萩城としては、毛利家の長門・萩城がありますし、松尾山と申しますと、関ヶ原で小早川秀秋が陣を構えて東軍に寝返った松尾山を思い浮かびますので、これまた、同名の城があります。
まぁ、こんなことをボヤいても、仕方ない所ではありますが、最初の築城に関する伝承としてもすごいです。
越中・天神山城の様子と共々にご紹介してみます。
昔は一番上まで車で上がれたようですが、下記のように、今は資料館のあたりまで車で入れます。
なんでも、倭国大乱(わこくたいらん)の際に、築城されていた可能性が指摘されています。
倭国大乱と申しますと、中国の複数の史書に記載されている日本の内戦で、おおよそ西暦190年頃から合戦になったようです。
193年には、戦争から逃れてきた日本人1000名ほど朝鮮に到着したともあります。
弥生時代の後期にあたります。
しかし、卑弥呼が登場して、王に即位することで、内乱は終結しました。
越中・天神山城の山頂からは、弥生時代の土器が出土しています。
通常は麓で生活して、山の上に住むことはないことから、その頃、籠城したものと考えらているようです。
ただし、儀式をしていただけかも知れませんし、憶測の域は脱しないでしょう。
一般的には、戦国時代の1554年、越中に進出した上杉謙信が、松倉城の支城として築城したとされます。
ただし、それより以前から、松倉城主・椎名康胤など城砦として運用していた可能性はあります。
その後、1572年頃から、何度か天神山の名前が文献に現れています。
越中・加賀の一向一揆が、上杉勢になっていた日宮城の神保覚広を攻略した際には、直江景綱が越中・天神山城に入って、越中・新庄城の鰺坂長実との連絡を保ちました。
その後、上杉謙信は、越中・天神山城を拠点として、越中攻めを進め、一族の長尾景直(長尾小四郎景直)が城主として入っています。
1582年、柴田勝家・佐々成政・前田利家らが攻めた、魚津城の戦いでは、魚津城を見渡せることから、上杉景勝が援軍として入りました。
小牧・長久手の戦いのあと、徳川家康を臣従させた羽柴秀吉は、1585年、後ろ盾を失った佐々成政の富山城を攻撃しました。
こうして、越中は前田利家に与えられ、前田家の家臣である青山吉次(青山佐渡守)・青山長正(青山豊後守)の親子が越中・天神山城主となりました。
ただし、魚津城主でもあるみとから、支城として天神山城も含まれていたと言うのが正しそうです。
青山吉次と青山長正の墓は天神山の登城路途中にあります。
下記が、青山佐渡守・青山豊後守の父子の墓です。
山頂部に大きな削平地が2つと土塁もあり、帯郭、竪堀、空掘もあります。
西の中腹に魚津市歴史民俗博物館(無料)があり、普通車であれば駐車場(5台)も利用できます。
定休日は月曜日です。
また、冬期12月1日~3月31日は閉鎖されていて、道路も凍結などのため通行止のようです。
資料館は城跡の展示はほとんどないようですので、天神山城跡だけ見学させて頂きました。
クルマは、失礼ながら青山吉次と青山長正の墓にお参りして、脇のスペースに止めさせて頂きました。
麓ではちょうど、天神山ガーデン(ぼたん園)で、ハナモモ、牡丹が咲いており見学できるようになっておりました。
交通アクセス・行き方ですが、あいの風とやま鉄道の魚津駅からタクシーで約15分となります。
駐車場は、当方のオリジナル北陸地図わかるようにポイントしておきます。
春先には桜の花見も、キレイなところですが、クマ注意ともあります。
見学所要時間は約20分~30分といったところです。
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